方位方角を厳密に意識するようになると、意念と勁の方向に、けっこうズレがあったなあと気づきました。
気づいたというか、先生に指摘されたことが、感覚で認識できたといいますか。
先生に指摘されたのは、斜行の際の鈎手に向ける意念と勁の方向でしたが、ほかにも、掩手肱拳や青龍出水、蹬足など打つときの勁の方向に、意念が合っていなかったように思います。
サンドバッグなど、目標が明確な時は、合っているように思うんですけど、実体を打つときは、接触点に力と意識が執着しないよう、双重にならないよう、通背の状態であるよう、勁を全身均等にさせようと心がけており、そこばっかり見つめないようにしていました。
そのことが、なにもない空間を打つ際に、意念と勁がズレるという現象を引き起こしていたのかもしれません。
勁は通背でありつつ、意念は集中、そして勁と意がピタッと合う、これが次の課題なのかも?
書いていて思ったのですが、これらの意味、わかりますでしょうか?
あまりに内面的になりすぎて、読んでいる人には通じていないんじゃないかという気がしますが、どうでしょう、60代おやじさま、コメントよろしくお願いします。
以前、合気柔術の道場に行ったとき、「うちはスピリチュアルな世界なので、わかりにくいかもしれません」と言われましたが、太極拳もここまでくると、けっこう怪しい世界になってきますね。
太極拳の入り口はデジタル二進法、機械的に動けばよいと習いましたが、レベルが上がると内功の話になってきます。
順番に、段階が上がっていけば理解できますが、途中の進化過程がないと、ただただ怪しい、スピリチュアル!という印象にもなろうかと思います。
私にとっては、勁も意も、全然スピリチュアルな話ではなくて、ちゃんと実感と伴った、科学的な作用だと思えるようになってきました。
算数からニュートン力学、相対性理論へ、みたいなかんじでしょうかね。
「気」に関しては、まだよく感じがつかめておりません。これもこの先の段階で、理解できるようになるのでありましょう。
コメント
「コメントせよ」との仰せですが、正直「分かりません!」です。先に先生の背中が見えなくなってきたと申し上げましたが、ここ直近の内容「太極拳は風水」「ロープを使って太極拳」で完全に視界から消えたところ、今回の内容でとどめを刺された思いです。
まず「通背」の意味が分かりません。全体的に言葉尻はなんとなく分かるのですが、その本質は理解出来ません。なのでコメント不能です。申し訳ありません。
ところでこの木曜日に3ケ月振りで稽古に参加出来ました。久しぶりなので「まず套路を見ましょう」ということで当会の24式を行いました。評価は「形はそれなりに出来ており、柔らかく力みはないけどメリハリがない。手足がバラバラな箇所が散見される。手指足指を連動させるよう意念を強く持て」と指導されました。以前から「意念が分からない」と質問していたのですが、今日まで納得するコメントをもらった記憶がありません。「勢いや流れで套路を打つのではなく、もう少し動作の正確さに注意せよ」とのコメントもありました。動作というか架式についての細かな注意は今まであまり無かったので少し不満に思っていたのですが、ある意味で私もようやく次の段階にきたのかと自分を慰めている次第です。アフターの席(これが楽しみなのですが)で「〇〇さんは指先まで勁が通っている」との話が出たので、酔った勢いで「どうすれば指先まで勁を通せるのか?」と質問すると「まず根元内功。これを十二分にしたうえで套路を練りこむ」と言われました。私にすれば禅問答です。「架式と意念」、しばらくはこれとの格闘になりそうです。
先生にコメント出来ませんが、先生からコメントを頂きたいです。
何卒よろしくお願いします。
60代おやじさま、コメントありがとうございます!
「通背」は、そういえば書いたことがなかったかもしれません。
「背中を通じる」と書きますが、「勁を全身均等にいきわたらせる」というようなニュアンスです。
勁が指先まで通るようになるというのは、やはり練習の量です。正しい架式で、意念をもって、ひたすら練習するということですね。
「意念」は、私も最近、意識するようになりました。安田先生に指摘されたからですが。
「意」は、思う、感じる、みたいな心の働きのことです。「念」は、もうちょっと強い思い、なんかしたろう、という気持ちみたいなものです。
ちなみに、意識の「識」は、それがはっきり左脳で言語化されたような状態です。
たとえば、鼻水をチーンとかんで、ティッシュを丸めてゴミ箱にポイッと投げ入れるとき、「ゴミ箱に放り込んだろう」という思いが「念」です。
ゴミ箱にむかって、手を動かすのが「意」です。
この場合、「識」の出番はありませんが、「距離1メートル20センチ、2時の方向、風速ゼロ、水平より15度下方に向かって、初速秒速2メートルで、肩の高さより右腕を伸ばし、肘が完全に伸びきる20%手前で、リリース」みたいに言語化するのが「識」です。
太極拳の場合、初心者が套路の形を学ぶときは「識」に頼ることになろうかと思います。
足はこっち、体重はどっち、手は上とか下とか。
形をきちんと覚えて、勁の感覚ができてくれば、「識」の出番はなくなり「意」と「念」だけで体が動くようになります。
達人になれば、もはや体は自動操縦で「念」さえも消える、ということです。
敵をやっつけてやろうという思いも消え、ただただ、相手に合わせているだけで、殲滅してしまっているという、オートメーション戦闘マシンみたいになります。
ですので、太極拳も達人の域に達してしまうと、ボケ防止にはならない、と聞きました。頭を使わなくなるからです。
私は今のところ、「識」が出てくる場面は少なくなり、「意」と「念」で動けるようになってきていますが、その「意念」の方向が、動作とずれてる、という指摘を受けたのでした。
ティッシュペーパーが、ゴミ箱に入らない! というかんじですね。
ご参考まで。
太極拳、どんどん楽しんでまいりましょう!
また目から鱗が落ちました。しかもボロボロと大量に!
「ティッシュをゴミ箱放るように」の例えは秀逸です。積年の疑問が氷解しました。
今の私はまだまだ「識」で動いている状態だと自覚出来ましたし、先生が安田先生から指摘された意味も理解出来ました。
「ここはどこ? 私は誰?」、、、 今の状態が理解出来れば今後何をすればいいのかが分かります。1つ壁を乗り越えられそうな予感がします。
恐れながら私も「達人への道」の入り口に立てた気分です。今後の練功が楽しみです。
本当にありがとうございました。
目から鱗、良かったです!
まだまだ大量の鱗が残っていると思いますので、これからも学習と練習を続けていただきまして、鱗が、すっかりなくなれば達人になっていると思います!