習うことと教えることでの気づきと変化

太極拳は、かつては習うばかりでしたが、だんだんと教える機会が増えてきました。

自分の教室はマンション自治会活動の一環として公園でやっている無料教室だけですが、習いに行っている教室でも教える側になることが増えてきましたし、わざわざ私のところまで夜遅くに習いに来られる人も現れました。

自治会の教室も、自治会の人より、他から来た経験者の方が多くなってきたかも?

自治会の教室は、立ち方、歩き方を中心とした健康のためのプログラムになっています。そこに陳氏太極拳で学んだ基本功や、套路の最初のところとか交えて、棒とかも使って、面白く練習できるように工夫しています。

他からやってこられた方にも、同じことをやってもらっています。基礎から学び直したい!という真面目な心構えの人しか来ませんので、地味~で風変わりなことでも根気よくやってくれてます。

基礎はすっ飛ばして、発表会用の套路とか推手をチョロチョロぱっぱとやりたいという人の方が、世の中圧倒的に多いように思います。

そういう場では私も雰囲気に合わせて楽しくやりますが、教える立場になると、テキトーなことはできないなあという、責任感というか誇りみたいなものを感じるようになってきました。

半端知識で質問された場合、優しく解説することはもうやめて「それは全く違うし、初心者が考えるところでもないし、どうでもよいです。まずはちゃんと立てるようになりましょう」と、一刀両断することにしてます。

変に丁寧につきあうとマウント取りにきてメンドクサイし、そんな人に教えても上達の見込みがないし、それならドンくさくても素直で熱心なオバサマ方に教える方が、よっぽど有意義だと思うのです。

ですので、四正推手をやりたいと思っている人が来られても、まだ早い、と思ったら、立ち方からやってもらったりします。

以前は、「まあ、四正推手でも、やっているうちにできるようになるんとちゃう~?」と思っておりましたが、この頃は「無理。」と思うようになりました。基礎なしで上位の練習はできませんね。

雰囲気だけ楽しめたらいいと考えている人は多いとは思うのですが、その気持ちもわかるのですが、つきあっているうちに「時間の無駄」としか思えなくなってきて、「アカン。立ち方から。」となってしまうのです。

それでも「教えて~」と来る人には、じっくりつきあいます。

「基本はできてる! 私にはもっと難しいことがふさわしい!」と思い込んでいる人は、来なくなりますので、気分良いです。

私自身は、もっと難しいことを習いたい、できるようになりたい、猛者に相手してもらいたい、という気持ちは常にあります。

でも、教える立場になって、色々わかってきたので、一人で練習するときや、教わるときは自分自身の基本動作、内面をさらに追及するようになってきたのでありました。

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