発勁で打つということは、すべからく胴体の開合によるものである、という感覚は、もうだいぶ前から感じるようになっておりましたが、開合の開と合のどっちやねん、という問題に想いを馳せてみました。
これは新架式にある「三環掌」で打つ練習をしていて、ふと気づいたのです。
老架式には出てこない動作でしたので、この打ち方がなかなかわかりませんでした。どうもしっくりこないのです。ただ、左の掌で、ペロッと撫でにいっているだけ、みたいな感じだったのですけど、ふと、突然、パシッ!と極まるようになりました。
この時の感覚は、左手だけが叩きに行っているのではなくて、右手と左手が、合わさる感じがあったのです。形としては、右手と左手は離れてますので、合わさっている風には見えませんが、体の内部の感覚です。胴体の開合の「合」の働きを感じました。
なーるほど、こういう感覚かーと悟りまして、それからは、ペロッと締まらない感じはなくなりました。常にビシッバシッと極まります。
さて、これに気づいてから、他の動作はどうなんだという思考に至りまして、ここからは理論的な分析といいますか、理屈の世界なので、そんなに深く考えてもらわなくてもいいのですけど、気づきをメモしときます。
「掩手肱拳」のような、周囲に広がるような打ち方は、当然のように開合の「開」だと思っていたのですが、実は違っていて、体の中は「合」なんじゃないか?
「裹鞭裹鞭」とか「蹬一跟」などの打ち出すような動作、「海底翻花」とか「擺脚」などの巻き込むような動作、こういうのもなんとなく「開」のイメージがありましたが、体の中身は「合」じゃないか?
そして開合は呼吸と連携しております。「開」で吸い、「合」で抜けますので、打つときは原則的に息が抜けて「合」ってことになろうかとおもいますが、息が抜ける前には充填されますので、「合」の直前には必ず「開」があるってことです。
発勁の瞬間は「合」だけど、その直前は「開」があって、その変化は、ほぼ同時なくらいのひとつの流れなんじゃないか! と思い至った次第です。
以前、「擺脚」の時は、息を吸うのか吐くのかわからない!という悩みをブログに書いたことがあります。陳正雷老師のテキストに「まず吸い、吐く」と書いてあるのを見つけて、ますます混乱しておりましたが、ようやく納得しました。
老架式の練習では、「開」と「合」が分離しているような、ゆっくりした練習が多いので、そのあたりわかりにくかったのですね。たぶん。
新架式を学び出して、これまでわからなかったことが次々と解決していっているような気もしております。
また一歩、達人に近づいた!
コメント