百田尚樹「幻庵」の感想レビュー

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百田尚樹先生の本は、中国の悪口とか橋下氏の悪口とか書いているのはよく読んでおりましたが、小説は読んでおりませんでした。

YouTubeで百田おやびんが囲碁の話をしているのを聞きまして、この囲碁の小説であるところの「幻庵」を読んでみようと思ったのでした。

ちなみに、私は囲碁はヘボです。

亡くなった父は、相当な囲碁マニアで、本棚ひとつまるごと全部が囲碁の本で埋まっており、経営していたビルの一室を囲碁部屋として、近隣の囲碁ファンに無料開放していたほどでした。

父には、9×9の小さい囲碁盤で、ルールを教えてもらったくらいで、そんなに本格的にはレクチャーを受けておりません。

娘が小学生になったころ、将棋やマージャン、オセロ、花札、チェスなど、私と妻とおばあちゃんが、娘に昔ながらのゲームをひととおり触れさせてみました。

囲碁も父から教わった程度の知識を教えました。

娘と、私が対局すると、どっこいどっこいです。

そのころ父はだいぶんボケてきておりまして、孫である私の娘に五目並べで負けておりました。

(ボケた祖父を負かして大喜びの図)

娘は囲碁にはそこそこ関心を持ったようで、YouTubeの囲碁教室を観たり、「ヒカルの碁」を読んだりして、瀬戸内海の因島にある本因坊秀策のお墓参りにまで連れて行かされました。ついでに因島の囲碁会館で大人に交じって一局打ったりして、ビックリです。

さて、そんな私ですが、囲碁小説「幻庵」は面白く読めました。小説の冒頭は、AIのアルファ碁の話から始まります。数年前に書かれた小説ですが、今の時代、まさにAI、チャットGTPで大騒ぎですから、引き込まれるように小説に入り込めました。

タイトルの「幻庵」というのは、江戸時代にあった囲碁の四つの家元のひとつ、井上家の第十世当主のことです。隠居してからの名前なので、最後の方でようやくその名前が出てきます。幼少のころから、何度も名前が変わって、しかも、前の代の人の名前を受け継いだりして、ややこしいです。

幻庵が主人公であり、幼少のころから亡くなるまでの話ですが、幻庵が主役というより、その時その時にかかわっていた人達が主役、みたいな感じです。

賭け碁師から本因坊の当主、名人にまで上り詰めた本因坊丈和が、人生を通じて、ずーっと幻庵のライバルなのですが、その曲折した人生の方が、面白く思いました。

幻庵のエピソードで私が一番面白かったのは、旅の途中で会った、インチキ賭け碁師を懲らしめるところです。

娘がお墓参りした本因坊秀策は、終わりの方にでてきます。ヒカルはでてきません。

小説で描かれている対局の妙は、よくわかりませんでした。碁譜を見ても、プロの高度なやり取り、ヘボには理解できませんものね。

しかし、そこに描かれている緊張感や、焦りや安堵感、満足感、絶望感などが伝わってきて、江戸時代の碁打ちの心境が入ってくるようでありました。

当時は持ち時間制度がなくて、長考といえば2時間でも3時間でも考えて、一局終わるのに3日とか4日とか、最後は血を吐いて斃れる、みたいな壮絶な戦いであったのですね。

私は、いちいち太極拳に置き換えて読んでしまっておりました。

血を吐いて斃れるような場面じゃなくて、囲碁に対する考え方です。

勝ちにこだわる賭け碁と、芸として神の技術を追い求める家元の碁、なんだか格闘競技と伝統武術の違いみたいだと思いました。

隅っこの奪い合いと、全体を押さえるのと、戦術戦略が目まぐるしく入れ替わっていくのは、武侠小説のアクションシーンを読んでいるようでありました。

武侠小説でも、技の一つ一つをいちいち理解しながら読んでるわけじゃありませんから、文字にすれば、囲碁の勝負も同じようなものです。

感動したシーンは、腕自慢のちびっこを弟子に迎えるエピソードです。

対局後、負けてプルプルしている子に「悔しいのか?」と聞くと、「碁がこんなに深いと初めて知った」と答えるのです。悔しくて泣いていたのではなくて、感動して泣いていたと知り、こいつは見込みがある! と弟子にする決意をした、というお話。

私も、技を食らって感動することがよくあります。私の技を食らって感動してくれる人が、現れるであろうか?

楊露禅の師である陳氏14世の陳長興は、太極拳を囲碁に喩えられたと聞きます。

推手の戦略のことを喩えられたのだろうと思っていましたが、奥の深みみたいなところも含んでいたのかな、とか思ったりしました。

太極拳ファンも読んでみても宜しかろうと思います。

>>幻庵|百田尚樹

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