蓄勁の感覚

「蓄」と書いたり「畜」と書いたり、どっちが正解なのか知らないのですが、化勁と発勁の間にあるのが蓄勁です。

発勁の感覚はわかりますし、化勁の感覚もわかりますが、蓄勁はいまひとつわかっておりませんでした。

それが、ふいに、急に、理解できました。

夜な夜な大刀を振り、本日はみんなで白蝋棍を振りまわし、NA先生との推手では勁の隙間が見えるようになり、公園に来ていた写真同好会の皆様からモデルになってーと頼まれたり、K先生からは「ワシを打ってみなさい」とか言われて、「そんなよう打たんわ、80歳を超えている人に」と思って、そ~ろっと打ってたら、もっと思い切り!とかしつこく言われて、ちょっと遠慮少な目で掌で打ってみたら、思った以上に衝撃があって、わあ、ヤバいと思ったり、なんだかんだあったあと、一人になりまして、静かに套路の練習をしていたら、突然に理解できたのです。

理屈や理論を理解したわけじゃなくて、体感を理解しました。

掩手肱拳の時、単鞭から拳を寄せてきて、今まさに打つ、という直前、エネルギー充填完了! という感覚があったのです。

これまでにもチャージしている感覚は、ある程度はありましたが、100%隙間もなくすっかり満タン、フル充電のサインが出た感じです。

弓に矢をつがえて、引ききれてないところから打っていたのが、完全に引いたところから打てたというかんじ?

纏絲の状態がすっかり準備整った、今、蓄勁できてる! という体感があったのです。

たまたま一回限り感じた体感ではありません。いちど理解できると、なんどでも、感じられるようになりました。

打てば拳だけでなく、体全体で発勁します。蓄勁も体全体の感覚です。

掩手肱拳にかぎらず、蓄勁から発勁という感覚をつかみました。

これは…また一歩、達人に近づいたのと、ちゃうか!?

コメント

  1. 60代おやじ より:

    既に達人です。はい。