長崎旅行に行きました

まったく計画になかったのですが、おもいもよらず長崎県に行きました。

というのも、娘の修学旅行を追いかけていったのです。

娘が、修学旅行に出発して、やれやれ、久しぶりに夫婦でまったりできるなあと思っていたら、初日の夜にお電話が!

「お子さんが発熱して保健室で寝てます。あした、熱が下がらなかったら、迎えに来てください」というお話。

あちゃー。

コロナやインフルエンザなら、翌日下がるってことはあるまいと思いまして、朝一番の電車に乗り、新幹線みずほで博多まで、博多からリレーかもめとかもめを乗り継いで、長崎へ。

迎えに来たものの、症状がひどかったら、何泊かしないといけないかもしれないなあーと脳内シミュレーションをしていたら、先生から電話がかかってきまして、熱が下がったので、修学旅行は続行、ってことでした。

もう着いてる!

とりあえずは良かった良かった。

しかし、熱がぶり返した時のために、待機はしておくことにしました。私が来ていることは、娘には内緒にしといてーと、お願いしときました。

長崎駅前の、オリオンホテルという安そうなビジネスホテルに予約して、荷物を預けて、私もぶらりと観光することにしました。

修学旅行の栞はコピーしてきたので、バッティングしないように回ってみました。

まずは長崎港のところに見えた黄色い球体は何やろうと思って、のぼってみました。ドラゴンプロムナードとかいう廃墟でした。廃墟は軍艦島だけじゃなかったのですね。

屋外施設なんですが床板とか腐って穴があいていて、薄暗くて、やばいかんじです。

大阪にこんな施設があったら、犯罪の温床やろうなあ。夜間は立ち入り禁止みたいです。

今、長崎駅周辺って、大きな開発工事をしているようですが、撤去されないんでしょうかね?

となりが長崎港でして、軍艦島上陸ツアーに参加しようと思ったら、天候不良で欠航。ざんねん。本物の遺跡は末永く残してもらいたいです。

ちなみに、娘たちは翌日のツアーで、そちらは無事に楽しめたようです。

港の食堂でうどんをいただきまして、出島へ。

以前から、出島は行ってみたかったのです。私の住む堺市にも出島はありますが、残っているのは地名だけで、南蛮渡来の跡形もありません。魚市場とかになっています。

長崎の出島は、周辺は町になってしまっていて、もはや島ではありませんが、往年の島の様子が復元されているのですね。

常勤のオランダ人の役人とか、停泊中の船頭(船長)、日本側の通訳の生活とか伺いしれて、なかなか面白かったです。小さいエリアですが、見るもんがいっぱいで、充実しました。

出島を出ると、長崎中華街がありました。カンフー用品売ってるかなと見に行きましたけど、たいしたものはなかったです。神戸中華街の半分の半分くらいの規模でしょうかね。

しかし、四方に門が合って、中華街の作りは共通しているのだなあと、感心しました。

中華街を出ると、唐人屋敷跡というエリアがありました。出島はオランダ貿易の拠点として、オランダ人が集められていた狭いエリアですが、唐人屋敷は、支那人が集められていたエリアです。屋敷といっても、出島より、だいぶん広大なエリアです。密貿易を防ぐために、一か所に固めたらしいです。

当時はぐるっと壁に囲まれていたようですが、現在は、角っこに遺跡があるだけのようです。けっこうな坂道でして、歩くのに大分くたびれました。

夕方になってきたので、世界三大夜景と言われている長崎の夜景を見ておこうと思い、稲佐山山頂にロープウェイで登りました。

ロープウェイ乗り場までは、タクシーで行きました。こちらのタクシー会社では、小学生の修学旅行案内もしているそうで、うちの子もお世話になったかもしれません。ジャパネットたかたがスタジアムとかいろいろ凄いのを作っているという話とか、長崎のお話を、いろいろ教えてもらいました。

神社の奥の乗り場から、フェラーリだったかランボルギーニだったかをデザインした日本人がデザインしたというロープウェイに乗りまして、山頂の展望台につき、日が暮れて夜景が見えるまで、ぼんやりしておりました。

レストランもあります。

豪華客船が停泊していました。望遠鏡で見たら、中国の船名が書かれていました。

世界三大夜景ということですが、昔見た函館の夜景の方が、地形が面白くて記憶に残っておりますね。

派手さでは、あべのハルカスのてっぺんから見る大阪の夜景の方が壮大です。

印象深い夜景は、和歌山のみさと天文台です。町の光はほぼ見えないのですけど、和歌山側と大阪側で、空の色が違う、街の明かりがあるかないかの違いだってことが面白かったです。

長崎の夜景は、きれいだと思いますが、世界三大? っていう気もしました。曇っていて星が見えなかったのが残念。

長崎駅で担々麺を食って、ホテルにチェックインして、良く寝ました。

旅行すると、早朝に近くの公園で太極拳をするという習慣がありますが、駅前のごちゃごちゃしたところでしたので、本日はなし。

路面電車で平和公園へ。

平和象の足元に、うちの子の学校の献花を発見。おいついた! ってかんじがしますね。

ぷらぷら散歩していたら、如己堂というところに来ました。永井隆というお医者さんが住んでいた小さいおうちです。記念館が隣にあったので、入ってみました。

永井さんという方は知らなかったのですが、記念館で色々と見まして、ビックリして感動してしまいました。

元軍医、原爆に被災され、奥さんは即死(消滅)だったけど、人を救い続け、二人の幼い子供を育てたカトリック信者の方です。

長崎、しかも原爆を落とされた浦上というところは、隠れキリシタンの町であり、明治になって禁令を解かれ、東洋一の教会(天主堂)が作られたところだったのですね。

キリスト教の町なのです。

その象徴である天主堂の目の前に、原爆を落とされたわけで、なんで?って気がします。

永井さんは寝たきり状態になってから本をたくさん書かれてます。一冊買って、帰りの新幹線で読みました。感動しました。感想はまた書きます。

永井隆記念館の次に、その浦上天主堂に行きました。もとの天主堂は完全に破壊されたので新しく作られた天主堂とのことですが、遺跡はいろいろ残っています。

首が飛んでしまった聖人の像とか。

天主堂の中にあって撮影できなかったのですが、被爆マリアは強烈でした。首だけになって、焦げて、目玉がなくなって、黒い空洞になっていて、鬼気迫るものがありました。

長崎原爆の象徴は、片手を上げている平和象ですけど、本当は被爆マリアじゃないかなあ。

うちの子の学校が、修学旅行先に長崎を選んでいる理由が、ようやくわかりました。カトリック系の学校なのです。そういえば遠足の栞に、浦上天主堂でのミサが入っておりましたわ。

つづいて、原爆資料館に行きました。

この夏、広島の原爆資料館に行ったばかりなので、こちらはさらっと流すだけのつもりでしたが、予想外に見入ってしまい、時間を食ってしまいました。

広島の展示は、生存者の記憶による絵画が多かったように思うのですが、長崎の展示は、生々しい写真が多かったです。米軍が撮影したものなのかよくわかりませんけど、同じ日本人同士なら、これ、カメラをよう向けんやろう…というかんじがします。

そして、やっぱりキリスト教の色が濃いのです。溶けたロザリオとか…。

イエスキリストはローマで迫害され殉教したとか、キリシタンは江戸幕府の政策で迫害されたりとか、そこらへんは歴史上のお話ということで、あんまりどうとも思っておりませんでした。

キリシタンの抑圧は、欧米列強による日本植民地化計画からの防衛の側面もあったということで、政治上、しゃあなかったのであろうという考えも持っておりました。

しかし、同じ神を信じる信者が集まる地に原爆を落として無差別に虐殺したのは、いったいどういうことなのだ、なんの殉教なんだ、とまるで理解できません。

トルーマンってキリスト教徒じゃなかったのかな?

原爆資料館を出たところで迷って、追悼記念館というところに行ってしまいました。

地価の細い通路を通っていったら、こんなところに。

不思議な緑色の光に包まれており、頭の上には水が流れていて、厳かな気分になります。被災された方の名簿が保存されていて、この先が爆心地だそうです。

お祈りしてきました。

廃墟みたいな長崎西洋館のところからチンチン電車にのり、長崎駅へ。

先に、新大阪について、娘を待ち構えるつもりが、のんびりしているうちに遅くなってしまって、新幹線が、娘たちのあとの便になってしまいました。

解散地の新大阪には妻が迎えに来ていて、私が迎えられる羽目になってしまいました。

そこで初めて、種明かし。全然感謝のそぶりもない娘でありました。

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