勁や気についての考察

内功だとか勁とか気とかエネルギーやら波動やら意識やら、ごっちゃに語る人って実はよくわかってないのじゃないのかなあと思いまして、イメージの整理をしています。

言ってる本人はもはや整理がつかないかもしれないのですけど、聞いている人が混乱に陥っている感じがありまして、ちょっとでも理解の助けになればと思います。

私が作っているテキストには結構詳しく書いてるのですが、詳しく説明するほどに分からなくなりますので、たとえ話でイメージできるように、これもまた投稿の転載です。

勁と気についての考察

内功に続いて「勁」についても考察してみました。
太極拳で言うところの「勁」は「力」の一種といわれます。「力」の中でも、洗練された効率の良い力を特に「勁」と呼んでおり、対して、雑な力は「拙力」と呼ばれているようです。
自動車で考えてみると、エンジンで生み出された爆発力が、クランクシャフトを回し、ミッションで回転効率を変換し、ドライブシャフトが回転を伝達して、デファレンシャルギアが回転の陰陽を振り分けて、タイヤが回り、車はまっすぐ進むという、こういったシステムで生み出される力が「勁」だろうというイメージを、私は持っています。
対して「拙力」は、エンジンをかけず、車の後ろから力任せに押しているとか、ロープで引っ張っているようなイメージです。エネルギーは使いますが、あまり効率的に動けません。
効率的に動ける体のシステムを使うのが、太極拳などの内功重視の武術であろうと思っております。
エンジンを回す燃料、ガソリンとか軽油が爆発して膨張したガスが「気」に当たる物質かなあという気がします。電気自動車の場合は電気ですね。そういえば「電気」も「蒸気」も「気」という字が入っています。
自動車を動かそうという思いが「意」、どこに行こうか具体的な目標が「念」で、ハンドルをどのくらい回すとかアクセルの踏み具合を考えているのか「識」で、これらが勁をコントロールして、車が動きます。
運転操作に慣れれば、まず「識」はなくなり、無意識でハンドル操作はできるようになります。
いつもの通勤で、行き先もルートも考えてないうちに目的地についてしまったというのは、「念」も消えて「意」だけになった状態です。
「識」も「念」も消え去り「意」だけで太極拳ができてしまう、戦えば気づいたら敵は斃れている。
それが、私の「意」「念」「識」のイメージであり、そういうレベルを目指したいなと思って、日々、套路とか站樁功をやっております。

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