百田尚樹「クラシックを読む」感想・レビュー(二回目)

ようやく読み終わりました。というか、聴き終わりましたというか。

百田尚樹「クラシックを読む」全3巻と、紹介されていたクラシック音楽です。

YouTubeに、本にでてくる曲をまとめているチャンネルがありまして、探す手間が省けました。どなたか存じませんが、ご親切にありがとうございました。

ただし、すっかり全部聴いたわけではなくて、曲の雰囲気をつかむほどには聴けたかなあという程度です。

本の中にも書いてありますが、クラシックの曲というものは、一回聞いただけではわからない、何度も聞いて、ある時突然、その作品の世界が見えるのだ! ということです。まだ世界が見えるほどには聴き込めておりません。その世界への道案内を、文字で示してくれているのが、百田尚樹「クラシックを読む」なわけです。

読後、クラシック音楽への認識がずいぶん変わりました。

昔のお固い真面目な音楽、高級店とか歯医者のBGMみたいに思っておりましたが、なんと革新的で天才的な音楽だったのかと、目から鱗でビックリです。

私は、フラメンコギターや沖縄民謡を学んできましたが、それらの音楽は、昔々から聴き継がれ、歌い継がれてきたものです。基本的には、だれか個人が作曲したものではなく、楽譜は後づけです。民謡なんて、作曲者不明が多いですね。

ジャズも同様で、宗教音楽や、民謡がベースとなり、そこにインスピレーションやアドリブが加わって、変化していくものです。ジャズミュージシャンが作曲した曲もありますが、作曲者より、プレイヤーによって人気度合いが変わるような気がします。ジョンコルトレーンのアドリブとか、パコデルシアのファルセータとか、国吉源次の伊良部トーガニとか、そんなふうにいわれますね。

しかし、クラシックは、作曲者が天才なのであります。

演奏者による味の違いもありましょうが、作品はまず譜面に書かれるのです。クラシック音楽が作られた時代は録音技術がなかったので、演奏家はプレイする前に、耳でその曲を聴くことができなかったのですね。

現代の盲目の音楽家は、一度聴いただけで再現してしまったりして、それも凄いと思いますが、当時それはなくて、譜面ありきの音楽だったのです。楽譜を見れば頭の中で音楽が響く、っていうかんじだったのでしょう。ベートーヴェンやスメタナは、耳が聞こえなくなっても作曲できたのは、そういうことだったのでありましょう。

当時、曲の解釈は譜面を読んだ指揮者にまかされ、オーケストラは指揮者のイメージに従うことになりますので、誰の指揮かで、すごく変わったそうです。現代の演奏は、すでに過去の多くの演奏を聞いてきた人々が演奏するわけなので、似たような演奏になります。

私はとりあえず標準的な演奏を聴き込んで、耳で覚えて、譜面は参考にして、指の位置を覚えて、あとはひたすら鍛練!というかんじですが、それはクラシックのやり方じゃなかったのですね。

ショパン「雨だれ」は、その方法で弾けるようになりまして、もはや楽譜は見ませんが、それは、民謡とかジャズのやり方だったのでした。太極拳の套路を覚えるのも似た感じですなあ。

クラシックは譜面が読めてなんぼ。妻は正しかった!

クラシックの曲がやたら長い理由もわかりました。序章、第1楽章、第2楽章、第3楽章、最終章というふうに、全部通して物語になっているのです。

当時の音楽は、演劇やバレエを鑑賞するようなものだったのでありましょう。有名な章しか聴き馴染みがありませんでしたので、全部通して聴くとまた違った印象がありました。

チャイコフスキーの「悲愴」は、第3楽章が有名らしいですが、最初から聞いていると、あらっ銀河鉄道999のイメージ、おもわず「メーテル!」と叫びたくなるところがありました。調べてみると、松本零士先生がベートヴェンとチャイコフスキーが大好きで、音楽担当の青木望さんに、そのイメージで!と依頼されたそうです。なるほどなあ!

クラシックの巨匠たちの印象も変わりました。

作品から受ける作曲家のイメージ、音楽室に飾ってあるお顔のイメージと、私生活での人格は別だったようで、けっこうハチャメチャな巨匠もおられたようです。私はドビュッシーが好きですが、どうやらあまり人格者でもなかったようですね。

でも、天才って、そんなもんなんでしょう。

「クラシックを読む」は、偉大な作曲家を案内してくれる本ですが、【間奏曲】というコラム的コーナーがあって、こちらも面白く読みました。

冷戦時代、鉄のカーテンに隠されたソ連の天才ピアニスト、スヴャトスラフ・リヒテルが紹介されていました。ウクライナ生まれで、独学でピアノを弾き、才能が認められソ連内で活躍するも、ドイツ人の父はスターリンに処刑され、リヒテルはソ連から出ることはなく、幻の凄腕ピアニストとして、西側諸国で長らく存在が噂されていた人なのでした。

YouTubeにリヒテル特集の番組もあったので、驚きをもって聴かせていただきました。そんなんまで聴いておりましたので、読破にとっても時間がかかった次第です。

余談として書かれていましたが、百田先生の父上も大のクラシックファンだったそうです。子供のころから見慣れていた、父上所有のモーツァルトのレコードジャケットに描かれていた女性ピアニスト、クララ・ハルキスが、百田先生の奥様にそっくりだそうです。

「幼いころからの刷り込み?」というところが、ほほえましかったです。

ちなみに私の妻は、クララじゃなくって、ハイジに似ています。

さて、ようやく最後まで読みますと、巻末に年表がありまして、それを見ると、17世紀終わりごろのヴィヴァルディから、20世紀なかばのショコスターヴィチが、クラシックの時代といえそうでした。

200年ちょっとの間に、集中して、天才作曲家が現れたのですね。

私の知る天才クリエイターは手塚治虫がナンバー1なんですけど、手塚先生を凌駕するような天才作曲家が、この期間にゴロゴロ出てきていたのです。バッハのエピソードなんて、人間離れしています。

王宮、貴族が幅を利かせていた社会制度や、楽器の発達といった技術進化など、当時の時代背景がクラシック音楽の巨匠を量産したのでありましょう。

時代が要請すれば、人間の才能はなんぼでも伸びるということですね。今の世の中で、現役のクラシックの大作家って聞きません。もはや時代が合わないのでしょう。

クラシックの次の時代は、ジャズの巨匠が多く現れました。その次はロック?

音楽以外の分野でも、そういう偏りはあると思います。戦国時代に武将やら剣豪が大量に現れましたが、これも時代の要請ですね。

今の時代に天才が多量に湧いてくる分野って、なんでしょう?

IT事業の大金持ち? ユーチューバー?

あんまり巨匠とか天才というイメージではないなあ。

私は太極拳の達人を目指しておりますが、時代の要請は全然ないような気がしてます。滅びゆく文化をつなぎとめることができればいいかなあ、みたいな気分です。

「クラシックを読む」で最後に紹介されたリヒャルト・シュトラウスは、クラシック界のアンカー走者みたいな人だったようで、こう書かれていました。

「人生の最晩年に、沈みゆく太陽を描いたのです。その太陽とはシュトラウス自身であり、同時にクラシック音楽そのものです。」

沈む太陽もいいですが、私は日の出を待つのが好きですねえ。

やはり、日出処の日本男児ですから。

>>クラシックを読む|百田尚樹

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