老子と太極拳

お出かけの際の電車の中とかで、老子の本2冊をちょびちょび読み進め、やっとこさ読破しました。

ずいぶん時間がかかりましたが、こういう類いの本って、小説みたいに一晩で一気に読破しても、あんまり頭に入らないのではないかな?と思います。

思想に触れる期間が重要じゃないかと思うのです。一晩触れただけでは、左脳では理解できても、腑におちぬ。

前回どこまで読んだっけ?と探り探り、読み返し、読み進めれば、老子思想に触れている時間が長くなります。

一つ一つの節を、噛み砕いて理解するより、うすぼんやりと、老子っぽい思考に浸っている方が、思考回路の書き換えが進み、学習の効果が大きいといえましょう。

昔の寺子屋で、意味は分からずとも論語の素読を重視していたのは、そういう効果を狙っていたものでしょうね。

逆に言えば、あまり影響を受けるべきでない共産主義思想等は、長く触れていないで、短時間でササッと分析してデータとして、無味乾燥に学習すべきです。

時間をかけると、洗脳されます。

さて、太極拳と老子には深い関係がある!といわれますが、道徳教のどの部分が、套路のどの部分にリンクするとか、そんな意味ではなかったです。

太極拳の技術や要諦、捨己従人とか、四両撥千斤とかが、老子の教えに合致しているというのは、多くの人が認識していることでありましょうが、もっと広い範囲での思想とか概念とか理念とか、そういうものが共通しているのだなあと感じました。

老子って太極拳っぽい、太極拳って老子っぽい!そういう感性的なもんですね。

わかりにくければ、逆に、老子っぽくない武術は?と考えると分かりやすいかもしれません。

トーナメントの頂点に立つとか、最低でも金メダルとか、そういうのは老子っぽくないです。

パワーとスピード命、より強く、より速く、400戦無敗、霊長類最強!も違います。

血と汗と涙の努力と根性のカタマリ!も老子っぽくないです。

頑張るときはがんばる!オフはしっかり休む!というのも違いますね。いつも自然体です。

勧善懲悪、俺は正義であいつは悪党、月に代わってお仕置きよ、征伐!というのも違うような。民は政治に関心を持たず、平和に幸せに暮らしているのが良く、統治者は、自分が良い人間でいることで国がよくなる、というのが老子の教えです。

若いうちは華々しく活躍してスターの地位を得て富と名誉は欲しいまま、引退後は業界の偉いさんになってふんぞり返り、磐石の組織体制で下部組織から上部組織に上納金が集まり幹部はウハウハ、長老に上り詰めれば影響力も大きくなり、時の政治に口を出す、というのは老子の嫌うところです。

というわけで、太極拳は、強さとか権威の象徴となるものでなく、ひとつの生活習慣として、頑張ったり気負ったりすることもなく、日々ダラダラと続けることで、健康とか、精神の安定とかに役立て、人生を楽しくするものであればよいのだなあーと思った次第です。

でもまあ、日々少しづつでも成長して、達人の世界に浸ってみたいかな、とは思います。

 

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