私の音楽歴

このブログは、このごろ太極拳のことばかりですが、私には音楽趣味もあります。

弦楽器は、特に好きです。

安田先生より、古の太極拳の名人は、琴の上手な人が多かったという話を聞いて、嬉しかったです。

なぜ、太極拳が琴と関係あるかといえば、手型の変化が上手になるからだそうです。

琴は弾いたことがありませんが、ギターのお陰で、私の指は自由自在です。

私の楽器歴は、3歳くらいの時に、カワイ音楽教室に通わされたところから始まりました。その頃の記憶はありません。

小学生のときは、個人経営のピアノ教室に通わされておりました。

これは、親の教育方針でして、私はイヤイヤ、怒られるのが辛くて泣きながら通っておりました。あまりに嫌がるので、やさしい先生の教室に代えてもらったのですけど、そちらの先生は優しすぎて、私は先生のとこの子供部屋で、漫画ばっかり読んでおりました。

ですので、ピアノはさっぱり上手になりませんでしたが、楽譜はなんとか読めるようになりました。ト音記号だけですけど。

小学生高学年から剣道を始め、ピアノレッスンからはすっかり離れてしまいました。

ただ、楽器は好きで、父が持っていた尺八やらバイオリンやらハーモニカやらで遊んではおりました。ピアノも、たまには触りました。

父は中途半端な音楽好きで、いろいろ楽器は買ってみるものの、続かない、という性格だったようです。

そのくせ、私がデタラメに弾くと、ちゃんと楽譜通りに弾きなさい!と怒るのです。自分は弾けんくせに。笑

ギターもありましたが、弟とチャンバラしていて壊してしまいました。ありゃ、申し訳なかったと思います。

ギターを始めたのは、大学の少林寺拳法部にいた時、空手部の友人が、ギターをポロンポロンと弾いて、かっちょええ!と思ったのがきっかけです。

影響を受けた、少林寺拳法部の友人も、ギターを習い出し、彼は個人レッスンまで受けだしたのですが、あまり上手にならず、やーめた!となりまして、じゃあ、そのギター、ちょうだいよ、ということで、在学中はずっと借りてました。

サザンオールスターズとか井上陽水の弾き語りでもできたらカッコいいなーと思ってましたが、楽譜を買ったものの、うまく弾けず。

弾き語りは、難しかったです。

そのころよく聴いていたのは、スティービーワンダーでした。大学の視聴覚室にあったCDを聞きまくっておりました。

その後、ほぼ全作品のCDを買い集め、ライブにまでいってしまうほどにファンになりました。

スティービーワンダー弾き語りをしようとは思いませんでしたが、ハーモニカのパートなら、耳コピできました。スティービーのハーモニカ、かっちょええ!

単音のスケールを弾くのに、楽譜はなくてもいいなあと気づきまして、次に耳コピしだしたのが、チャーリー・パーカーとか、マイルス・デイビスとかの管楽器です。

ここから、ジャズにハマって、アドリブの楽しさに気づきました。

ギターは、ジョー・パスが好きになりましたが、ギターアドリブは和音もあるし、難しいと思いました。

そのうちバーデン・パウエルを知りました。ギターを太鼓みたいに鳴らす、サンバ・ボサノバのギタリストです。これまたカッコいい!

こちらは、楽譜を買いまして、何曲もコピーしました。

サンバとか、ボサノバのギターは、和音がかっこよくて、コード進行というものに関心をもつようになりました。

ボサノバの弾き語りだ!と思って、ジョアン・ジルベルトとか小野リサとか聴くようになりましたが、ポルトガル語は難しすぎました。

大学では中国語を専攻していました。第二外国語にポルトガル語を選んだのですけど、ポルトガル語の授業は、なんと、スペイン語で行われていたのです。

そもそも、ポルトガル語は、スペイン語専攻の学生が選ぶものでしたね。

ちなみに、モンゴル語と、サンスクリットも取りましたが、モンゴル語は教科書がロシア語でよくわからず、サンスクリットは神話の物語ばっかりで、これまたよくわかりませんでした。

当時、私が好きだった、少林寺拳法部で中国語学科のジャッキーチェンファンの女子は、第二外国語に広東語を選びまして、私もそっちを選んでおけばよかったと思います。

この女子とは、スティービーワンダーのコンサートを一緒に行きました。良い思い出です。

それはさておき、ジャズ、ボサノバと興味が広がっていき、ジャズライフという雑誌を買うようになりまして、文通コーナーに載っていた、ボサノバ好きという神奈川県のお姉さんと文通するようになりました。

一度も会ったことはないのですけど、10年以上文通して、いまでも年賀状のやり取りはあります。

お姉さんは、今は創作ダンサーとして活躍されているみたいです。私は太極拳テキストを創作しています。

大学を卒業したあとは、地元の堺のカーディーラーに就職しました。

ジャズライフの、メンバー募集の欄で見つけたバンドに参加しました。

最初のバンドが、ロックバンドTOTOのコピーバンドで、ロザーナとかやってました。なんでやねん。

リードギターの同い年の男子とは、一緒に風俗店に行くほど仲良くなりましたが、音楽の方向性が合わず、バンドは抜けました。

次に参加したバンドは、これは良かった!

同い年の男子がドラム、同い年の女子がボーカル、ジャズ研の現役学生がピアノとベースでした。そして私がギター。

なんだか、最高の組み合わせですね!

このころ使っていたのは、エピフォンのフルアコースティックギターです。

あいかわらず、和音のアドリブは苦手でしたが、ソロパートはそれなりにできて、ジャズバーとかで飛び入り参加してました。

豊中市のジャズフェスティバルに参加したときは、テレビに写っていたみたいです。

「イパネマの娘」とか、やりました。

翌日、中古車オークション会場で、お前、テレビでギター弾いとったなーと、何人もから声をかけられました。

このバンドは、仲良く、いい感じだったのですが、紅一点女子が結婚することになりました。

バンドメンバーとではなく、よそのゴスペルシンガーの人とです。結婚式の二次会には、みんなでお祝いに行きました。

結婚を機に、女子はバンドを抜けてしまいまして、残ったメンバーは、今後はインストゥルメンタルバンドで行こうかーとか話してたんですけど、なんだか自然消滅してしまいました。

バンドをしていたころ、ギターの個人レッスンを受けるようになりました。

ちゃんと、ギターの基礎から習いたいと思うようになったからです。

職場の近所の楽器屋さんで紹介してもらったギターの先生が、フラメンコギターの先生でした。

なんでやねん。と思いましたが、根が素直なもので、フラメンコギターを習い出しました。右手の爪も伸ばすようになりました。

最初のギターは、友だちにもらったクラシックギターにゴルペ板を貼り付けて間に合わせていましたが、物足りなくなってきて、コンデエルマノスの初級者向けを20万円で買いました。

このころの私のギターアイドルは、パコ・デ・ルシアです。

こちらの教室では、毎回、ドレミファソラシドのスケール練習から、アルペジオ、トレモロ、ラスゲアードなど、みっちり鍛えていただきました。

まあまあ、弾けるようになりまして、クラシックギターバーで弾かせてもらったり、ママさんフラメンコ教室の発表会で伴奏をさせてもらったり、なかなかにのめりこみました。

ただ、スペイン語で歌おうとは思わなかったです。

このころは、地元のジャズバーの常連客になっており、いろいろなプロミュージシャンとも親しくなりました。

おしゃれな店で、ほぼ毎日のように通うようになっており、お客さん同士も仲良く、女性の友人も何人もできました。実に楽しい日々でした。

ところが、改装休業、そのまま廃業となってしまいまして、ざんねん。

次に通うようになったのは、常連客が週末にライブ演奏をして楽しむというバーでした。主に、フォークソングが多かったです。こちらでは、ギターソロで、バンドで、いろいろ弾かせてもらって楽しみました。歌いはしませんでしたが。

このバーのアシスタント的女性が、バーのお休みの日にサックス教室をしており、常連客の多くが生徒さんになっており、私もサックスを始めました。

クラシックの先生ですけど、生徒チームで組んで演奏したのは、アース・ウィンド・アンド・ファイアーでありました。

深夜の公園で、よく練習しました。ついでに、キャノンボール・アダレイなんかも練習してました。うまくできませんでしたけど。

こちらのバーも長く通っていましたが、その頃私がやっていた介護事業の、経営状況とか、人間関係の不振のイザコザで忙しくなり、行かなくなってしまいました。

介護事業の方は、分裂して、私は廃業しましたが、バーは今でも営業されているようです。

嫌な去り方をしたので、それ以来は一度も行っておりません。

フラメンコギターはずっと続けていて、20年以上習っておりましたが、先生がお年を召されて、だんだん音程が取れなくなってきました。

指摘するのも申し訳ないので、へんなチューニングのまま習っておりましたが、コロナで教室をお休みされて、先生は、そのまま引退されました。

長年、教室に通わせてもらいましたが、一緒にお食事とか、プライベートな付き合いは全然なかったです。

私が最後の弟子だったようで、引退前に、先生が大切にされていたギター、マヌエル・レジェスを譲り受けました。

マヌエル・レジェスは、めっちゃええフラメンコギターです。

それまでコンデ・エルマノスで満足しておりましたが、マヌエル・レジェスを知ってしまうと、コンデの音は、木の箱っぽいし、弾きづらく感じました。

マヌエル・レジェスは、指が指板に吸い付くように弾きやすく、空気の揺れが全然違います。

お値段も全然違いますけど。

マヌエル・レジェスは、普段遣いには恐れ多くて、あんまり弾きませんが、妻が所属しているピアノ教室主催のクラシックコンサートで、何回か弾かせてもらいました。

でも、老人ホームのボランティア演奏では、コンデエルマノスを持っていってました。動かされたり触られたりしたくないもんね。

コロナ騒ぎが始まる少し前から、琉球の三線を始めました。

沖縄民謡は、それほど興味はなかったのですけど、ビジネスでお付き合いのあった人が、三線教室を始めることになり、私の実家が家業としている賃貸長屋の部屋を教室とすることになったのです。

もと工場付きの長屋住宅でして、中庭もあって、こんな恵まれた教室もなかろうというかんじです。お稽古の後、バーベキューパーティーもできます。

私も運営側になりまして、レッスンにも参加するようになりました。本皮の三線も購入しました。

始めて1年目のコンクールで新人賞もいただきました。新人賞と言っても、昇段試験の初段みたいな感じですけど。

そちらの教室のホームページでは、ブログ連載をさせていただいております。

教室の宣伝みたいなブログなので、検閲校正が入って原稿の削除や追記がなされており、素の私の文章ではないですが、そちらを読んで入会される人も多くて、あなたがあのブログを書いている人!? と感激されたりして、嬉し恥ずかし。

フラメンコは、先生が引退されてからは、あまり弾かなくなって、このごろは三線ばかりです。右手の爪も短くなりました。

6弦のギターに慣れていましたから、3弦の三線なんて簡単です。

「いやあ、少ない弦は少ないなりに、奥深く、難しいですねー」と、公式には語っておりますが、そんなことないです。ラクラクです。和音もないし。

ただ、歌三線といいまして、三線だけのインストゥルメンタルというのは、ほとんどないのですね。

歌がメインで、三線は伴奏です。この、歌が難しいです。

琉球の方言の発音を覚えるのがたいへん。主に、宮古島民謡を習っておりますが、島ごとに言葉が違ってたりします。

歌詞が五七五七七じゃなくて、八八八六というのも、なんか変な感じですね。

歌い方も、カラオケのポピュラーソングっぽいのでは感じが出なくて、声を絞るように、長い息で歌います。

私はもともと、歌は上手でもないです。

本格的に歌を習ったのは、この沖縄民謡が始めてということになり、なんだか、こっちの歌い方のほうがなじんできました。

そして、弾き語りにも慣れてきました。

こんど、とある団体のイベントでの隠し芸で、松山千春の歌を歌えと言われまして、ええーっと思いましたが、久しぶりにギターをひっぱりだして、歌う練習をしてみたら、あら、あんがいいけそう。

ジャンル違いですが、民謡のレッスンを受けているからでしょうね。

松山千春は、たぶん、ヘアスタイルが近いということで選ばれたのだと思います。

というところで、現在までの音楽歴を辿ってみました。

音楽に関しては、三線教室のブログや、フラメンコギターのブログで書いていたのですが、教室のは好きなように書けないし、フラメンコギターのブログはデータベースの異常とかで表示されなくなってしまい、どうせ大した内容でもなかったし、今後は、この「コラム的なんでもブログ」で、ぼちぼち書いてみようかなと思います。

 

コメント