飲み屋では、野球と政治と宗教の話をしてはいけないといいます。贔屓のチームや支持政党、宗教観に違いがあると、ケンカになって酒がまずくなるからですね。
そんなわけで、今まで宗教について人と話をすることってなかったのですが、このたび子供が受験する小学校がキリスト教系でして、親との面接の際に、宗教をどう思うかという質問が出てくるそうなので、夫婦で考えてみることにしました。
といっても、妻はまったくの無宗教、日本人なら般若心経と天津祝詞くらいは唱えられるべきであろうと思いますが、南無阿弥陀仏が精一杯のようであります。
しょうがないので、一人で考えてみました。
目次
宗教観と信仰心
実は私、高校生の頃より20年ほど、少林寺拳法の修業をしてきました。少林寺拳法って、実は宗教法人でもあります。金剛禅といいます。お釈迦様の教えです。
少林寺拳法の道場(道院)では、突いたり蹴ったり投げたり固めたりの練習の前か後に、「聖句・誓願・礼拝詞・道訓・信条」といった祝詞みたいなのを唱えておりました。
「己れこそ、己れの寄るべ、己れを措きて誰に寄るべぞ、良く整えし己れこそ、まこと得がたき寄るべなり」(自分自身に頼れるように、日頃からよく鍛えておくのだ、という意味)というような、武道を志す者にふさわしそうな心がけから、「道は天より生じ、人の共に由る所とするものなり、その道を得れば以て進むべく、以て守るべく、その道を失すれば、即ち迷離す、故に道は、須叟も離るべからず・・・」といった、生き方を説くものなど、いろいろあります。
どれも、責任は自分にあるのだというキビシイ雰囲気でして、仏教の教えではありますが、浄土宗のような、南無阿弥陀仏と唱えれば誰でも救われる、というようなものではなかったです。
宇宙の法則みたいなのがあって、それに逆らったらアカン、万物の法則からはずれないように、正しく生きなさいというのが、少林寺拳法でいう仏教の教えだと、私は理解しておりました。
これが私の宗教観のベースとなっております。
手塚治虫の漫画「ブッダ」に出てくる教えも、わりとそんなかんじですね。
少林寺の教えを常に心がけ、真面目に実践しようと思ったら、けっこうしんどいと思いますが、人格や人生は向上すると思います。
宗教とは
日本古来の八百万の神々や先祖のお墓や仏壇を拝むというのは、自然や祖先への畏敬の念があらわれた信仰心であって、宗教、つまり「宗を教える」というのとは、ちょっと違うよな、と私は考えております。(「宗」の意味はググってください。いろいろあるみたいです。)
自然や先祖を敬うというのは、人間のDNAに刻み込まれた自然な感覚であって、教えたり教えられたりせずとも、もともと備わっているものだろうと思うのです。(あくまでも私の考えです。科学的根拠は知りません。)
世界の三大宗教は、仏教とキリスト教とイスラム教ですが、どれも生身の人間が周りの人に、教え(戒律)を伝えたものでありましょう。(仏陀とイエス・キリストとマホメット)
もともとは、なにかを拝みなさいとか、私が神だから敬え、というものではないですね。(教祖が神だなんていう新興宗教はなんだか怪しいです。)
宗教とは、生き方の指針、心の拠り所、判断の基準を伝え、実践を促し、人を幸福に導くものだと、私は考えております。
仏教とキリスト教とイスラム教
キリスト教のことはあまり勉強していないので、詳しいことはよく知りませんが、こちらも「人を自分のように愛しなさい。」とか「幸いである、喜べ。」という、生き方の指針といえるのではないかと思っております。
洗礼とかミサとか、ああゆう形式的なものは、後からじょじょにできあがってきたものでしょう。
マリア像を拝んだり、十字を切ってアーメンというお作法も、イエス・キリストが現役で教えを説いて回っていたときはなかったはずですし。
私の学んだ仏教では、まずは自分のために、そして半分くらいは人のためにつくしなさいといっております。
キリスト教はなんとなく、自分も人も分け隔てせず、神の愛を持って奉仕せよ、といったニュアンスを感じるのですが、順番や程度の違いはあっても、生きているうちに幸福を求めるという点で似たようなもんではないでしょうか。
死んだ後に天国にいけますように、というようなものではなかったはず。
イスラム教はさらに不勉強で全然わかりませんが、イスラムの唯一絶対の神アッラーと、ユダヤ教のエホバ、キリスト教のヤハウェは同じ神だという話を読んだことがあります。
神様には、姿形も匂いも味もない、五感で感じることはできない、ということなんで、呼び方の違いだけでしょう。(般若心経にもそんなことが書いてあったような。)
ということは、アッラーも、天にまします我らが父も、少林寺で教える宇宙の法則(ダーマ)もおんなじことなんじゃないかと思えまして、私の中では、相反するものというイメージはないです。
戒律や礼拝の仕方などの違いというのは、その地域の生活様式とか環境や文化、もともと根付いていた自然信仰の影響からくる、表現の違いではないかな、と私は思ってます。
いずれにしても、神の意志、宇宙の法則に従って、正しく生きて、現世を幸福に生きなさいということでありましょう。
宗教戦争や、宗教テロなんてのは、長年の歴史のうちに、為政者の都合や大衆の欲望、民族の恨みなどが複雑に溶け込んで、ねじ曲がって変革されて姿を変えて本を忘れた、端っこの宗派の者共が、お互いの我を通そうとして、ぶつかり合っているものではないでしょうか。
もともとの教祖開祖同士がそんな喧嘩をするとは思えないです。
宗教は判断の基準
人間、生きていれば、善悪の判断に迷ったり、将来に悩んだり、苦難におちいったり、誘惑に負けたり、人付き合いに疲れたり、孤独におちこんだり、うかれたり、絶望したり、憎んだり恨んだり、死にたくなったり、いろいろあると思いますが、そんなとき、人生を深く考えようとした時の心の拠り所、判断基準となるべきものが、宗教ではなかろうかと思っております。
神に祈れば、苦難が去って、物事すべて解決、なんてことはないですね。
しかし、宗教のフィルターを通してみれば、しなくていい心配や、得も知れぬ不安というのがなくなり、なるようになる、なすようになすという、心構えを持てると思います。
楽になる、しんどくなくなる、悲しみがやわらぐ、希望を持てる、そういう効果が期待できるものではないかいな、と考えるのであります。
宗教の効能
例として聞いた話ですが、雪山で遭難して動きが取れなくなったミッション系の学校の生徒たちがいたそうです。
遭難時の対策はいろいろあるわけですが、手をつくしてもどうにもならんというときは、救助を待つしかなくなります。
こういうとき、絶望感におちいると、人間早く死にますが、希望があれば、精神が折れず、多少は長く持つらしいです。救援隊がくるまで生き延びていられれば助かりますね。
例として教えてもらった話では、生徒たちは助かっておりまして、神様が悪いようにはしないはずだから、助けは来ると信じていたと話したそうです。
現実としては、助かるかもしれないし、助からないかもしれないです。
これがもし、死ぬにしても、神の思し召し、宇宙の定めだと考えることができれば、安らかに死ねるんじゃないでしょうか。
私は、そんな極限状態を体験したことはないので、自信を持って語ることはできませんが、生きるか死ぬかの時に、宗教心があるのとないのでは、心構えは変わると思うなあ。
大地震があって、屋根とか柱が落っこちてきて、足とかグチャッとはさまって、自分はもう助からないと思っても、近くにいた見知らぬ少女に、覆いかぶさって守ってあげたり励ましたりすることくらいはできるかもしれません。
人を助ける喜びを持って死ねたら、ただ、いてえ!苦しい!ギギギと死んでいくより、心は楽になるように思います。(なってみないとわかりませんけど。)
法事のときだけ、南無阿弥陀仏と唱えているくらいでは、あんまり意味が無いように思いますが、このような宗教心は持っておくのが良いと思いますよ。
…というわけで、貴校の特色である宗教教育は、子供の豊かな心と強い精神を育むものであると、強く賛同しておりますので、ぜひ入学させてください。
と、面接では、こんな答えでいいんでしょうかね。
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