黙念師容

昔は、師匠が弟子に一回だけ動作の見本を見せて、あとはひたすら自分で練習、そんな教授方法があったそうで、これを黙念師容といったそうです。

槍の練習をしていて、以前に、ちょっとだけ安田先生に見本を見せてもらったことを思い出しまして、この言葉も思い出しました。

槍の見本は、黙念師容だったのだな。

しかし、いかにカンフー本場の古の支那であっても、初心者のレッスンとして、それはないやろ~と思うのです。

一回見たところで理解できるわけがないし、変な誤解をして、それを増幅させるばかりじゃないでしょうか。

私が、上達できたのは、安田先生に習い出して、手取り足取り、繰り返し繰り返し、段階を踏んで、ものすごく細かいところまで、実演と日本語でご指導いただいたからです。

練習は、それ以前から20年以上やってましたけど、さっぱり上手にならなかったです。

太極拳の動作なんて、普通の人間には、見てもわからん、聞いてもわからん、技を食らって尚わからん、というようなものです。

理解できる言葉で、論理的に説明してもらい、そのうえで、体感して、つまり右脳左脳の両方を駆使しないと、入ってくるものではないと思っております。

槍の動作が少しは理解できるというのは、これまでの学習とリンクするからです。

さんざん教わってきたからこそ、黙って念じている師の教えも受容できるようになってきたってことですね。

習い始めからいきなり、見て覚えよ、では無理だったと思います。

ですので、初心者が、YouTubeとかの名人の動作を真似て、太極拳ができるようになるなんてのは、幻想です。

古の名人が、黙って見せて、やってみよとやったのは、もしかすると弟子選びのテストじゃなかったのかなあ? と思います。

センスのあるなしを見るテストだったか、素直さを見るテストだったか、熱意を見るテストだったか、観察力、記憶力、想像力、忍耐力、探求心を見るテストだったかわかりませんけど、何も教えないことで、入門志願者を篩(ふるい)にかけたのではないでしょうか。

あかんたれは自分から諦めてくれるでしょう。

よそで「あの先生はアカン」と悪口を言われるかもしれませんが、「お前、向いてへんわ~、やめとき」とか言って恨みを買われるよりは良しとしたのでは?

そして、残った見込みのある者に、「うむ、一年見てきたが、お前には見どころがありそうじゃ、どれ、わしが直々に相手をしてやるから、なんでもよい、かかってまいれ」とかなんとかいって、実地指導に入っていったのではないでしょうか。

ちょっとロマンチックな話になってきましたが、現代日本で初心者に黙念師容はないわ、とおもいます。

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