異流派推手交流会(これは私が勝手に呼んでいて、本当は違う名前)に、私が勝手に好敵手だと思っている人がいます。
なんていう流派だったか、聞いたことのない流派ですけど、ストイックに術理を追い求めている人です。
足腰は粘り強く、超接近間合いが得意で、当て身とか足払いとか首刈とか、流れるようにコンビネーション豊かに繰り出してこられ、石畳の上でも平然と転がしてくれます。
でも、そんなに無茶なことはしなくて、技が決まればお互いに笑顔です。さわやか好青年です。というか同じ年くらいなので好中年です。
技をかけられるたびに、私も洗練されていくようで嬉しく楽しいです。
練習後の懇親会では、独自の技術理論を述べられたりして、ほかの人からは「わからへん、この武術変態!」と敬意をもって罵られていますが、私は太極拳用語に脳内変換できるので、なるほどなるほど、ふむふむと理解できます。
懇親会で「強いのと、うまいのと、どちらを目指している?」という話になり、私と彼は「うまいの」でした。勝ち負けはどっちでもいい、術理を極めたい、という共通の願望を持っています。
その彼が「でも結局のところ、自分のイメージ以上のことはできていない…」と嘆いておられ、おや、ここは私がリードしているかも?と思いました。
手合わせしている時、自分のイメージになかったこと、解釈を超えた動きが自動的に出ることが、ちょいちょいあるのです。
一人で套路を打っているときも、ふと、この動作の意味はこれだ! と閃くこともあります。謎は解けた! と金田一少年みたいな気持ちになります。
隠されていた遺跡、何百年もの間の先人の智慧と工夫の積み重ねを発掘したような気分になり、感動と感謝が湧いてくるのです。
という話をしましたら「うらやましい!」と褒めてもらえました。
この違いはおそらく、套路をしているかいないかの違いだと思います。
彼の流派では、武術的な体の使い方を学び、それを練って試して戦術を編み出していく、みたいな方法らしいです。
対して、我が太極拳は、先人の叡智が詰め込まれた自動運転戦闘アプリであるところの套路を、体と脳みそにインストールしてアクティブにしていくという練習方法です。
彼の流派のアプローチでは、上達には個人のセンス、探求心や研究心、実験機会の量によるところが大きいように思いますが、太極拳は、とりあえず套路を正しく学んで、毎日練習すればOKです。
意味がよくわからんでも、あれこれ独自の工夫をしなくとも、套路をちゃんとインストールできていれば、圧縮梱包されていたスキルは、自動的に解凍、発動されます。
あら、こんな隠しコマンドがあったんやーと気づくのです。
太極拳では、センスより愚直さが役に立ちますね。私みたいな、どんくさい人向けです。
目指すところは同じでも、アプローチ方法が違う彼と私、今後もちょいちょいお手合わせしていくことになるでありましょう。お互いに、今後どのように進化していくのか、楽しみであります。
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