この物語はすべてフィクションです。
第二十三話 スパイやエージェントや特務員や諜報員のこと
夕食後、晶に促され、テツは夜更けに拳二宅をひっそり出た。
「怪しい動きを探知!」
拳二が気づいた。思った通りだ。何かある。
拳二は、こっそり尾行する。途中で、キッズ・ケータイで太児を呼び出して、合流。美鈴には内緒だ。
テツと晶が向かったのは、湖畔の古びた倉庫跡の廃屋だった。
もう暗いというのにサングラスをかけたスーツの男たちが、黒いバンを倉庫に横付けし二人を待っていた。
「……晶。返したところで殺されるかもしれへん。やっぱりお前は逃げとけへんか」
「逃げても同じや。せめて、うちが見届ける」
スーツの男たちに促され、半開きになっていたドアから、薄暗い倉庫の中に、二人は入っていった。
同じ時間、少し離れた倉庫の屋根から、庵天先生が密かに現場を監視していた。
バンから出てくる怪しい男たちを双眼鏡で観察する。
「3人か…ずいぶん顔が小さいな」
「逆よ、あなた」
「あら。久しぶりだから緊張してたかな」
春子…穏やかで優しいはずの妻が、黒い戦闘服に身を包み、小型カメラで撮影している。
双眼鏡を持ち替えた庵天先生がつぶやく。
「どうやら悪い予感が当たったようだ…C国に通ずる特務機関だな。といっても、下請けか外注だろう。あんなゼンジー北京みたいな喋り方をする奴らが、正社員の幹部なはずがない」
倉庫内の会話は、仕掛けておいた盗聴器で集音されて、庵天先生がイヤホンで聞いているのだ。
春子は小さくうなずく。
「この程度の連中、掃討は簡単ね。狙ってるものが何なのかよくわからないけど、とりあえず回収しないと…。C国が狙っているからには、世界の平和にとって影響の大きなものに違いないわ」
庵天は目を細め、低く答えた。
「10分以内にあいつらを片付けて、ふたりを救出する。後を頼む」
そのとき。
「晶ーっ!!」
倉庫の脇から、駆けつけてきた拳二と太児の声が響く。
二人は叫びながら、倉庫の中に飛び込んでしまった。
「あ、あいつら、こんなところまで来やがった。ちょっと厄介だぞ」
倉庫の中では、晶が顔を真っ青にして叫ぶ。
「なんで来たんや! アホー!」
拳二は拳を握りしめ、息を切らせながら答える。
「ほおっとけるかよ!」
太児も叫ぶ。
「晶ちゃん……ぼくもがんばるぞ!」
倉庫の中、鉄の匂いと油のにおいが充満する空気。
「お友達が勢ぞろいしたところで、何をがんばるアルか。しかたない。目撃者は全員死んでもらうアル」
黒スーツの男たちが銃を構えた。
晶が悲鳴を上げかけたとき、銃を構えた男は地面に叩きつけられていた。
黒い影が、どこからともなくスーツの男の後ろに忍びよっていたのだ。人間離れした足運びで滑るように床を進み、音もなく絡みつき、争う間もなく、男は一瞬で地面にへばりついていた。
「あっ」と、もう一人が振り返るが、黒い影は疾風のごとく絡みつく。
「うおおっ」と、肘を振り回そうとした瞬間、
「あああーーーっ!」
男はまるで竹とんぼのように宙を舞い、はるか上空の鉄骨に叩きつけられ、どさっと落ちた。
「……な、なんだ!?」
太児は呆然とする。
拳二は目を丸くして声を裏返らせた。
「い、今の動き……人間か!?」
太児の心臓は爆音のように鳴っていた。
(あれ……もしかして、太極拳……? ええっ? まさか?)
黒い影の動きは、小さく、良く見えない。カンフー映画のような派手な立ち回りはない。ひっついたと思ったら、終わっている。
「小学生二人、床に伏せろ」
低く小さい声が、鋭く二人に指図した。
ふたりが慌ててうつぶせになると同時に、銃を持った三人目の男が、背後から影に銃口を向け、叫んだ。
「何者アルね!」
その瞬間、スーツの男は足を上に、頭を下に縦回転して、真っ逆さまに床に落ちた。黒い影が、地面スレスレに低く沈み、クルッと回転して男の足を刈ったのだ。
さかさまになった男が、黒い影の男を見上げて、ハッと叫んだ。
「こ、黄河一号…?」
「ふっ、今は黄昏(たそがれ)とでも呼んでくれ」
静かに答えた声に、太児は聞き覚えがあった。
その隣に、いつのまにか、もう一つの小柄な黒い影が寄り添っている。
スーツ男の傍らで跪き、尋ねた。
「大変恐縮なのですが、息の根止めさせて頂いてもよろしいでしょうか?」
「何をする…」と言い終わる前に、スーツ男は、グタッと伸びてしまった。
沈黙。
わずか数十秒…組織の三人は、全員倒れていた。
「……全員片づいたわ」
その声にも聞き覚えがある。
「……は、春子さん?…と、先生??」
いつもは割烹着姿で料理をしていた春子が、漆黒の戦闘服に身を包み、髪は後ろで一つに束ね、腰にナイフを下げている。
太児は目を丸くした。
晶も驚愕の声を漏らす。
「嘘やろ…」
春子は二人の言葉を無視して、すたすたとテツに歩み寄った。
そして無言で、彼の胸元を探る。
「おい……何をするんや」
テツが抗う間もなく、春子は懐から小さな布袋を抜き取った。
開けると、中には5cmほどの木の玉が入っていた。
「……これね」
春子は淡々と確認し、布袋をポケットに収める。
「待って! それは――」
晶が叫び、父をかばうように立ちはだかった。
「テツの命がかかっとるんや! 持ち主に返したらな!」
春子の目は一切揺れない。
「晶ちゃん、これは世界を揺るがす危ないものかもしれないの。C国の手に渡ったら、世界の破滅につながるかもしれないわ。お父さんが持っていても殺されるだけ。しかるべき機関で処理します」
庵天先生が静かに言葉を添える。
「びっくりしたか。まさかこんなことになっていようとは、俺もびっくりだが…」
晶も太児の拳二も口をあんぐり開けている。テツは状況が呑み込めていないが、同様に口を開けていた。
「こいつらは、C国に通ずる秘密組織のスパイだ」
春子は晶をじっと見つめた。
「テツさんは、もうマークされてるわ。秘密をつかまれたと思われて、もう平凡な日常に戻れない」
「日頃から平凡でもなかったけどな…。テツはどうなるん?」
「お目当ての物は持っていない、内容もわかっていないと証明できれば、狙われないかもしれないけど…。そんな甘い組織ではないわ」
春子の声は、判決を言い渡す裁判官のように冷静だった。
「……お父さんと一緒にいたら、晶ちゃんも危ないわ。離れた方がいいわね」
その瞬間、晶の中で何かが弾けた。
「あかん!」
倉庫の鉄骨が反響するほどの大声だった。
「テツを守るんは、うちの役目や!!」
春子の瞳が一瞬、揺らいだ。
「……強いわね。でも、自分の命が危なくなるのよ」
「かまへん!! テツはうちから離れたらあかんようになるんや!!」
晶の声が震えながらも、確かに倉庫の空気を突き破った。
テツは娘の背中を見つめ、ボロボロと涙を流した。
「晶……」
意識のないスーツ男達から、武器や電子機器を回収していた庵天先生は静かに目を閉じ、ゆっくりと吐息をもらした。
「春子……それ以上は言うな。晶ちゃんは自分の答えを持っている」
春子は、言葉を飲み込み、微笑んだ。
テツは、しばらく沈黙のあと、かすれた声が漏らした。
「…ワシな…これまで親父らしいこと、何ひとつしたことあらへんかった。晶に苦労ばっかかけて、命まで巻き込んでもうて……最低や」
「…テツ…」
「ワシ一人が消えたら、お前らは安全やろ…」
拳二が前に出た。
「何言ってんだよ、テッちゃん。俺たちがいるよ!」
太児も必死にうなずいた。
「そうだよ! ぼくだって力になるよ! テッちゃん!」
拳二と太児の目は真剣だった。
「あんたら……」
晶は二人を見つめた。
「アホやろ」
うん、うんと二人がうなづく。
「…ていうか、テッちゃんて誰やねん…」
とテツがつぶやいた。
静かに様子を見ていた庵天先生が、一歩前に進んだ。
「……いい仲間を持ったな、晶ちゃん」
彼は全員の顔を見渡し、低い声で続ける。
「だが、敵はここで終わらん。C国がらみの秘密組織はもっと大きく、もっと深い。今夜の連中は雑魚にすぎない」
春子がうなずく。
「本隊が動く前に、後片付けをする必要があるわ」
庵天先生は鋭い視線でテツを見据えた。
「テッちゃんの覚悟は聞いた。だが命を捨てる必要はない。……この件、俺たちが処理する」
「…いや、テッちゃんて…」
春子は静かに頷くと、黒いトランクを開き、とりだしたジャケットを羽織り、大きなマスクをつけ、ゴムの手袋をはめた。
その仕草は、普段の温和な主婦の姿からは想像もつかないほど冷徹で、鋭い気配を纏っていく。
春子は、かすかな笑みを浮かべ、しかし瞳は氷のように冷ややかだった。
「私の…コードネームはいばら姫。世界平和を守るための諜報機関のエージェントよ。得意なことはお料理とお片付け。それは家でも、仕事でも同じ…」
三人は言葉を失う。
春子は腰のホルダーから細長いナイフを取り出し、切っ先を光にかざした。
庵天先生は妻に、短く告げた。
「先にみんなを避難させる。あとはまかせる」
春子は、微かに口角を上げ、刃をひとひら翻した。
「承知しました」
「お前たちには、いずれ猪の解体も体験させてやるが、これは見ない方がいいな。2,3分で済むから、壁際で壁の方を向いておけ」
庵天先生と春子は暗闇の中、寄せ集められていたスーツ男たちの脇で、もぞもぞと動いていたと思うと、シューッと煙が上がり、倉庫の中が白くなった。
「よし、みんなこちらの出口から外に出ろ」
庵天先生が先頭を進み、そのあとに晶、テツ、太児、拳二と続く。
倉庫の外に出ると、空には星が瞬いていた。しばらく足元の良く見えない暗闇を歩き、湖畔の無料駐車場についた。
庵天先生が古いワゴン車のドアを開けていった。
「これで、いったん俺のアパートに行く。朝になる前に、家まで送ってやる。ちょっと狭いが、みんな乗れ」
「春子さんは?」
「心配ない。後片付けをしたら、戻ってくる」
車が走り出してしばらくすると、後ろの方で、ボンッという音がした。白い煙の球が暗い空に浮き上がっていく。
後ろを振り返っていたテツが、低くつぶやいた。
「あれ、なんや??」
「爆発事故でもあったのかもな。まあ、気にするな」
しばらくすると、パトカーや消防車のサイレンの音が、真夜中の空気を切り裂くように響き渡った。
庵天先生のアパートに帰ると、すでに春子は割烹着姿でそこにいた。
いつもとかわらない春子さんだ。
「お疲れ様だったわね。みんな。シャワーでも浴びたらいいわ。服もずいぶん汚れちゃってるから、お洗濯と乾燥しておくわ。ちょっとくつろいでいてね。お腹が空いていたら、お茶漬けくらいできるわよ」
太児は、あの3人は死んでしまったのか?と思ったけれど、怖くて口に出せない。
何も考えないようにしようと思って、頭から冷たいシャワーを浴び、春子が用意してくれていた旅館の名前が入った浴衣を着て、お茶漬けをすすった。
「太児君、ちょっとこっちを見て、じっとしていてね」
春子が、太児の額に、ちょんと人差し指を当てた。
なんだか、あたたかくて気持ちがいい…。
…目が覚めたら、自分の部屋のベッドの上だった。
きのう、パジャマに着替えないまま寝てしまったらしいけど、何があったのか、よく覚えていない…

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