哲学小説「太児」第十一話

この物語はすべてフィクションです。

第十一話 老子と雲手と陰陽のこと

太児は東山先生の話していた「老子」について、庵天先生に尋ねた。

今日は、庵天先生の趣味に付き合って、湖の桟橋から釣りをしている。

「また難しい話を小学生にしたもんだな。老子ってのは、これでいいのだ、バーカボンボン!ってことだ」

「さっぱりわかりません」

「じゃあ、わかりやすいように、かんたんに説明してやろう。老子は大昔の思想家さ。実在したかどうかはわからない。だけど、太極拳と老子の教えはよく合っているんだ」

庵天先生がピュッと竿を振ると、ひゅるひゅると糸が伸びていく。

「老子っぽい武術って言ってもわかりにくいだろうな。老子っぽくない武術の方がわかりやすいか…」

太児も竿を振った。

「トーナメントの頂点に立つとか、最低でも金メダルとか、そういうのは老子っぽくない。パワーとスピード命、より強く、より速く、400戦無敗、霊長類最強!も違う。スポ根マンガちっくな、血と汗と涙の努力と根性の結晶も、太極拳じゃないんだなあ」

庵天先生は、ゆっくりとリールを回して糸を巻いていく。

「頑張るときはがんばる!オフはしっかり休む!というのも違う」

太児も糸を巻き取っていく。

「勧善懲悪、俺は正義であいつは悪党、月に代わってお仕置きよ、征伐!というのも違う。民は政治に関心を持たず、平和に幸せに暮らしているのが良くて、統治者は、自分が良い人間でいることで国がよくなる、というのが老子の考えだ。…太児、巻くのが速すぎるんじゃないか?」

太児のルアーが、むなしく藻を絡めて戻ってきた。

「華々しく活躍してスターの地位を得て、富と名誉を欲しいままにして、引退後は業界の偉いさんになってふんぞり返り、磐石の組織体制で下部組織から上納金が集まりウハウハ、長老に上り詰めれば、大きな影響力で時の政治に口を出す、というのは老子の嫌うところだ」

庵天先生は、ゆっくりとルアーを引き寄せている。

「無為自然、あれこれ小細工しないで自然体ってのが、老子の思想であり、太極拳の思想でもあるのさ。太極拳は、強さとか権威の象徴となるものじゃない。ひとつの生活習慣として、頑張ったり気負ったりすることもなく、日々チンタラ続けて、健康を保ち、精神の安定に役立て、人生を楽しくすればいいのさ」

「そうか、体を壊してまでも、金メダルを狙うのは、太極拳じゃないんだね」

太児は再び、竿を湖面に向かって振った。

「他人の価値観にあれこれ言うべきじゃないけどな。否定はしないし、合わせることもない。人は人、自分は自分だ。俺の言うことが絶対に正しいわけでもない」

「庵天先生の言うことは信用するよ」と太児が言った。

「妄信的なのも良くない。拳二のやっている少林寺拳法は、仏陀の教えをベースにしているが、仏陀は物事を正しく見て、正しく考えて、正しく行えと説いている。その上で、執着を手放して、自由になれ、と言っている」

庵天先生の竿が、グググっと引っ張られた。

「おっ、かかった。ほかにも、孔子や孫子など、いろんな思想の影響を受けて支那の武術はできている。また、おいおいと話そう」

庵天先生は、30センチはあるマスを釣り上げた。

マスを魚籠に入れると、庵天先生は桟橋の先で、裸足になった。

「太児、靴を脱げ」

「え? ここでですか?」

「温度を感じろ。足の裏で」

太児は恐る恐る靴を脱ぎ、桟橋に立つ。ひんやりとした濡れた木の感触が足に広がった。

「いいか、太極拳はまず立つことからだ。相手も自分も、水の中にいると思え」

「水の……中?」

「そうだ。押せば返すし、引けばついてくる。それを体で覚える」

庵天先生は太児の腕に軽く触れ、ほんの少し押した。

太児は後ろによろけそうになったが、先生の手がふっと消える。すると、逆に前へ倒れそうになる。

「ほらな。力は消えても、流れは残る」

「……なんか不思議です」

「自然の法則だ。太極拳は、無為自然だ」

湖面から立ち上る朝もやの向こうで、太陽が顔を出した。

「さて……今日は、せっかくだから、もうひとつ基本の型を教えよう」

庵天先生は、朝の光に向かって立ち、ゆっくりと両手を胸の高さまで持ち上げた。

「これは雲手。雲の手と書く。」

先生の腕が左右に漂うように動き出す。手のひらは交互に入れ替わり、まるで湖面に浮かぶ雲を撫でているようだった。

「雲が動くと、日が出たり陰ったりするだろう。陰と陽が変化し続けるのが太極拳だ」

「なんでこんなにゆっくりなんですか?」

「速いと、纏絲勁が養われないからな」

「てんしけい??」

「リールに糸を巻くような力だよ」

太児は見よう見まねで手を動かすが、途中でぎこちなく止まってしまう。

「固いなあ。それじゃ、糸が絡まるよ。水の中を泳ぐみたいに動かせ」

庵天先生は太児と向かい合わせになり、太児の両手首に自分の両手首を合わせ、導くように雲手をした。

「雲は急がないが流れていく。糸は慌てず、ゆっくり巻く」

その感触は不思議と温かく、柔らかいが芯が通っていた。

「これ……前にやった懶扎衣と単鞭に似てますね?」

庵天先生はふっと笑った。

「まあな。交互にやっているといえる。これが太極拳の基本だ。俺は太極拳の始めたころは、毎日これを、低い姿勢で128回やってた。動きが止まると、村の年寄りに、棒でバシバシ叩かれたな」

少し遠くを見る目になり、やがて動きを止める。

「今日はここまでだ。頭で覚えるんじゃない。寝てても体が勝手に動くまで、やるんだ」

湖面の雲がゆっくりと流れていく。

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