この物語はすべてフィクションです。
第二十一話 テツとヨシ江と晶のこと
晶が拳二の家に来て、一カ月がたった。太児や美鈴ともすっかり親友だ。
拳二の家は昔ながらの作りで広い。4人が集まるときは拳二の家が多くなった。
晶の母のヨシ江は、実家である剛家には、遠慮があるのか帰りづらいようだ。旅館で住み込みで働いているらしい。
晶や、兄である拳二の父には時々電話をしているようだが、夫のテツに居場所がばれるのを恐れて、職場を明かさない。
また、晶が拳二家に匿われていることも、テツにくれぐれもバレないように、気にかけていた。
「そんなんいうても、心当たりの一番目やろ、ここ。そのうち押しかけて来るんとちゃうかなあ」
晶は心配そうに言う。
テツがやってくることも心配だが、テツがギャンブルと喧嘩に明け暮れて、野垂れ死にすることも心配している。もちろん母も心配だ。
「あーあ。うちは日本一親思いの少女やわ」
夕方、パパパラッとバイクの軽いエンジン音がして、拳二宅の前で止まった。
「スーパーカブの音や。テツや!」
晶が、とまどったような、嬉しいような声を上げた。
ピンポーンとドアホンの音がして、返事を待たずに、ドンドンと扉を叩く音がした。
「晶がおるやろ! 隠しやがって! ださんかい!」
ドアを開けて拳二が怒鳴った。
「おっちゃんがちゃんとしてないからだろ!」
「誰がちゃんとしてへんねん! お前、ガキのくせに生意気なんじゃ!」
玄関から入り込むなり、拳二の頬に拳が飛んだ。
「いってー! いきなり殴りやがったな」
拳二が殴り返す。怒りに任せた動きは直線的だ。
テツも元テキ屋の腕っぷしを見せ、二人の拳がぶつかり合う。
そこへ晶が飛び出してきた。
手には下駄。
「このクズテツがああ! 人の家に来て、いきなり何あばれてんねん!」
バコッ! テツの後頭部に下駄が直撃する。
「痛っ! なにしよんねん、晶!」
「うるさい! お母はん泣かせて、みんなに迷惑かけて、今さら何しに来たんや、このスクラップがあ!」
「スクラップ言うな!」
拳二、晶対テツの殴り合いだ。
そこに太児がオロオロしながら二階から降りてきた。太児はもちろんテツとは初対面だ。
「ままま、冷静に…」
おそるおそる近づいて、拳二の横にぴったりつく。
「何やお前は。他人は引っ込んどかんかい!」
テツがドン!と太児の肩を掌で突いて押しのけようとしたが、太児は肩を受け流した。勢いで、テツがよろける。
そこに拳二がパンチをたたみこもうとしたが、太児が拳二の袖を軽く引っ張ったせいで空振り。
拳二とテツは同時に、ド派手にすっ転んだ。
「……は? なんだ?」
さらに太児が一歩、音もなく踏み込んだ。
テツが振り上げた肘に、そっと掌を添えて軌道をずらし、下駄を振り上げる晶には、さりげなく膝カックン。
「拳二! じゃませんといて!」
「へ? 何もしてない」
回し蹴りを浴びせようと片足を上げた拳二の腰のベルトに、ちょいと指を引っ掛ける。拳二の足は大きく空振りして、テツの頭の上を通り過ぎた。
「うおー、危ないやんけ!」
三人とも攻撃は外れっぱなしだ。
太児は、何もしていない顔で「みんな冷静に~」と叫んでいる。
晶は、下駄を放り投げ素足で突進し、テツの背中に飛び乗って拳でボコボコと頭を叩く。
「このアホ! ハゲ!」
「ハゲてへんわ!」
収拾のつかない状況になってきたころ、拳二の母の千恵が台所から顔を出して、近所に響き渡るような大音響で叫んだ。
「アンタら、うるさいで! 近所迷惑や! 耳の穴から指ツッコんで、奥歯ガタガタいわしたろかい!!!」
シーン。
「あらあら、私としたことが、はしたないことを…。ほほほ。もう少しお静かになさってくださいね」
千恵は、日頃は上品な言葉で都会人を装っているが、興奮すると幼少時に過ごした、地の言葉が出る。
その静けさの中、晶が叫んだ。
「……うち、もうイヤや! なんで、こんなんなん……」
テツの目が泳ぎ、しばし沈黙の後、低くかすれた声が漏れた。
「……ワシが悪かった、晶」
晶が顔を上げる。テツが神妙な顔をしていた。
「ワシなぁ……どうしたらええか、分からんかったんや。とりあえず、お前に会いに来たんや」
声が震えた。
「ほんまはお前と、ヨシ江と、三人で、もう一回やり直したいんや…」
その時、ピンポーンと、チャイムが鳴った。
開けっ放しの玄関ドアの向こうに、晶の母、ヨシ江が立っていた。
「ご近所さんにから、お父はんが思いつめたようにバイクに乗っていったときいて…。きっとここだと思って、駆け付けたのよ」
「ヨシ江ちゃん、ようやく帰って来たのね…」
「ごめんね。千恵ちゃん、本当にごめんね…」
ヨシ江は、涙を浮かべ、声が詰まって、言葉にならない。
「ヨシ江、ワシが悪かった。堪忍や…」
「なんべん同じことやってんねん。もう堪忍の限界はとっくに超えてるわ。態度で示してんか」と晶。
「晶、ごめんね。あんたは本当に強い子や…」
「お母はんは謝らんでええ。悪いのはテツや」
「お父はんは、強がってるけど、弱い人なんよ。不器用でどうしようもない人やけど、悪い人とちゃう…」
「ギャンブルやって喧嘩して働けへん人が、何で悪い人とちゃうねん」
「それでも、お父はんは…晶のお父はんなんよ…他にはおれへんのよ…ここまで50㏄のバイクで晶に会いに来たのよ…」
「電車できたらええのに、アホやろ」
「ほっとけ、電車代がないんじゃ」
ヨシ江がそっと、テツの横に腰を下ろした。
「…お父はん…晶の想い、汲んであげてください…」
そう言って、ゆっくりとテツの肩に手を置いた。
千恵が、ふぅっと息をつきながら、ちゃぶ台に味噌汁を並べた。
「晩ごはん食べながら仲直りしましょうね。テツさんも遠いところからきて大暴れしてお腹もすいたでしょう?」
その言葉で、場の空気が少し緩んだ。
晶が鼻をすすりながら「……味噌汁、もらう」とつぶやくと、拳二が「オレも」と頷く。
太児は居心地悪そうに席に着き、テツも不愛想な顔でちゃぶ台の前に座った。
その晩は、拳二宅の客間で、久々に親子三人水入らずで過ごした、晶一家だった。
自宅に帰った太児は、今日の混乱をまだ飲み込めず、お風呂に浸かりながら、ぼんやりと指先を見つめていた。
なんで、あんなにスルスル動けたんだろう。頭は真っ白だったが、身体が勝手に動いた。
庵天先生の言葉がよぎる。
「考えなくても動けるようにするのが太極拳だ…」
今日の混乱が、遠く感じられた。

コメント
太児はいつのまにか達人になってますねー
あとはほぼ新喜劇(笑)
吉川さん
BGMに、ホンワカパッパ、ホンワカホンワカとイメージして読んでいただけると幸いです。