少年少女小説「太児」第二十話

この物語はすべてフィクションです。

第二十話 金剛搗碓と清王朝と楊露禅のこと

日曜日。湖のほとりのキャンプ場にある庵天道場には、太児たち全員が集まっていた。

朝の空気はまだひんやりしていて、湖面が鏡のように光っている。

「さて、今日は我が陳氏太極拳の母式、金剛搗碓を教える」

「先生、今日は猪肉の解体バーベキューもやるん?」と晶が目を輝かせた。

「今は猟期じゃないからなあ。11月から3月しか捕れないんだよ。今日は冷凍保存のでやろう」

「冷凍かぁ……まあ、肉やったらなんでもええけど」

準備運動と基本功で一時間。汗を拭き、麦茶でひと息ついたところで、庵天先生がゆっくりと見本を見せた。

その動きは、水面に影が落ちるように静かで、そして重かった。

起勢。両手がゆらりと上がり、下がる。波が押し寄せ、海面が盛り上がり、水が引いて海が静まるようだ。

左から右へ、藪を掻き分けるように揺れながら、ゆったりと前進する。

大きな獣が忍び寄るような足取りで、左足、右足とゆらゆらと大きく進んできたところで、右の拳と右脚が上がり、ピタッと止まった。

巨大な重機が動き出したような圧迫感。

いや、戦場の兵器が攻撃準備を完了したかのような……息が詰まる。

そして…

ズゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥン……。

拳が、地の奥へ落ちた。

左掌で拳を受け止め、右足が静かに地面を踏みしめる。

巨大な杭が地球の奥深くに打ち込まれたかのようだ。

庵天先生が地面にめり込んだかのように、沈んで見えた。

「これが、金剛搗碓だ。金剛神が碓(うす)を搗(つ)くと書く。太極拳のすべての動作が、この一式に集約されている。すべての動きは金剛搗碓の一部か変化だ。漢字で言えば、『永遠』の『永』みたいなもんだな」

太児は、異世界で楊露禅が見せてくれた套路を思い出した。雷鳴のような震脚、響く風圧…。

「太極拳って、そんなドカーンって激しいこともやるのん?」晶が首をかしげる。

「今もやっているのは陳氏の門派だけだな。でも、少林拳とか古い武術では、子供でも普通にやっているぞ。地震みたいに地面を揺らすから、『震脚』って呼ばれている」

「かっこいい! 俺は派手にやりたいね!」と拳二が興奮気味に拳を握る。

庵天先生は苦笑しつつ、子どもたちを見回した。

「最初から激しくやると形が崩れる。今はゆっくり、音を立てずに正しい形でやることが大事だ」

「どうして他の太極拳ではやらなくなったの?」美鈴が首をかしげる。

「もともと太極拳は陳一族の秘伝だったんだ。世に広まったのは楊露禅という名人が北京で教え始めてからだ。今では『楊式太極拳』として知られている。ゆったり上品な動きが特徴だな」

あの激しい「雷鳴」を得意げに見せてくれた楊露禅が「上品」だなんて。

想像して太児は、思わず吹き出した。

「楊露禅は当時の王族や高官に教えたらしいから、上品に見せたのかもしれない。もしかすると、異民族に秘伝の部分を隠したのかもな」

「えっ、異民族?」

「そうだ。今の中国ができる前の清王朝は、満州族が、漢民族を征圧して、今の中国本土とモンゴル高原を支配した王朝だ。武術家は、漢民族の王朝だった「明」を復活させたいと考えていた。カンフーでやる包拳礼は、「反清復明」の意味もある。右手のグーが「日」、左手のパーが「月」、合わせて「明」って暗号だ。当時の武術家は、辮髪という長い三つ編みをさせられて、清王朝に従っていたが、腹の中では反発していたんだろうな。だから、肝心なことを隠していたかもしれないと思うんだ」

「へぇぇぇ!」拳二の目が輝く。

「第二次世界大戦後、新中国ができて、漢民族の支配に戻ったが、武術家は今度は新政府に弾圧されてしまった。皮肉なもんだ」

しんとした空気が流れた。

「とりあえず、真似してやってみな」

庵天先生の手拍子で、活気が戻った。

拳二が、勢いよく踏み込んだ。

ドンッ。

へっぴり腰で足を踏み込み、体は前に流れて、あえなく尻もち。晶が腹を抱えて笑い、美鈴はため息をつく。

「いってぇ……!」

「受け身はうまいやん」と晶が笑う。

「うっせー! 今のは地震の初動だ!」拳二が怒鳴る。

晶も負けじと踏み込み、拳を振り下ろした――が、腰が浮き、軸が崩れて膝からおっとっと。

「ひゃっ、あっぶない!」

美鈴が叫ぶ。

「お前ら、さっきの話を聞いていたのか? 静かにやれって言ったろ。…いきなり見せるんじゃなかったなあ」

美鈴は用心深く、丁寧にやってみる。

丁寧すぎて、膝がプルプルしている。

「それじゃあ、生まれたての小鹿さんだなあ…」

太児の番になった。

ゆっくり、ゆっくり……足を出し、腰を沈める。

あの圧倒的な「重さ」に、一歩でも近づきたい。

頭では分かっているのに、足と腕がちぐはぐになる。

拳を振り下ろそうとしても、空気を切るだけで、庵天先生のような「重さ」は微塵もない。何が違うんだろう。

ドタバタした練習にくたびれ、お茶の休憩。

「太児、力を抜け。足で立つんじゃなくて、腹で立つんだ」

太児はきょとんとしたまま、先生の顔を見上げた。

「腹、で……立つ?」

「考えるな。やってみろ」

再び構えた。

今度は深呼吸をして、ゆっくり腰を落とす。

腕を持ち上げ、右足を上げる。

「そこだ。馬に乗っていると思え」

ふっ…と、体が一瞬、軽くなった気がした。

天から吊り下げられているようで、重心が自然に落ち、地球に吸い寄せられる。

拳を下ろすに合わせて、足が地面に吸い付いた。

庵天先生が、口の端をわずかに上げた。

「今のだ。覚えとけ」

太児は、何がどうなったかは分からない。でも、今のは確かに、「できた」気がする。

拳二が「なんか今カッコよかったぞ」と言った。

「ほんまや。カンフーっぽかったで」と晶。

美鈴は「太極拳って太児に合ってるんじゃない?」

練習が終わり、全員でストレッチ。庵天先生が言った。

「形はまだまだだが、みんな太極拳らしくなってきたよ。特に太児は、動きの芯を掴みかけてきたな。いいかんじだ」

太児は、初めて自分の体が、自分の心と合った気がした。

 

練習の後は、冷凍イノシシ肉のバーベキュー。湖畔に寝転んで星を見上げる。

拳二と晶はいつものように言い合いをし、美鈴は黙って星を眺めている…と思ったら寝息を立てていた。

太児は、ポケットから木の珠を取り出し、そっと握りしめる。

……あたたかい。

何百年も昔からの脈動が、珠の奥から伝わってくるように、太児は感じた。

コメント

  1. 吉川 和博 より:

    つまらないことですが、私の記憶だと右手グーが「日」、左手パーが「月」だと思ってましたが、違いましたか?
    間違ってたらすみません。m(_ _)m