小説「太児」第六十四話

この物語はすべてフィクションです。

第六十四話 八極拳と少林寺拳法のこと

「あー、お腹空いたわ」

美鈴が試合場から外に出ると、観客席にタコ焼きの屋台が出ていた。

「おいっ、美鈴やんけ。何やってんねん」

「あれっ、晶ちゃんのパパ。こんなところでお店出してたの?」

「そや。客も少ないし、たいして稼がれへんけどな。イベントには屋台がつきもんや。誰か知り合いでも出てるんか?」

「知り合いじゃなくて、私が出てたのよ」

「な、な、な、なんやと~」

「拳ちゃんや、太児も出てるわよ」

「ほんまかいな! 何を好き好んで…」

「たまたまよ。テツさんは出ないの?」

「こんな賞金もでえへん大会、ワシが出るかいな。そもそも、エントリーしても不合格やで。屋台でなんぼか稼いでる方がええわ。美鈴、たこ焼き食うていけや。ドリンク一杯はタダやで」

美鈴は、タコヤキを頬張り、熱かったのでウーロン茶を流し込んで、冷やしながら、テツに聞いた。

「その、合格とか不合格って、なんなの?」

テツは、タコ焼きを回しながら、少し考えて、答えた。

「ここは審判がおらんからな。軍鶏の喧嘩はあかんのや。死んでも負け認めへんような奴おるやろ。感情に任せてムキになる奴とか、嘘つくやつとか、いらんらしいわ。ほんで、事前に審査して出ささんようにするわけや。ワシはインチキしてでも勝つタイプやからな。この大会の趣旨に合わへんのや」

美鈴の声を聞きつけて、観客席にいた伊東道戒もやってきた。

「先ほどの試合は、理屈と感情の対決、正しさの執着争いのようでしたね。しかし…勝ちを手放し、相手に押し付けた美鈴さん、見事でした」

「あら、そう? ありがと」

「なんや、ようわからへんけど、美鈴は負けたんか?」

「勝負に負けて、気分は勝者です」

「ま、どっちも負けよ」

「ま、ええやんけ。勝っても銭にならへんようなもん、頑張ったかてしょうない。それより、うまいタコヤキでも食うとけ」

伊東道戒も、タコ焼きを買って食した。

「次の試合は、拳児君の出番のようですよ」

「あいつも勝気やからなあ。どうなることやら。まあ、見てみようけ」

 

コートに立った拳二は、ジーパンにトレーナー。そもそも出場する予定もなかったので、普段着だ。

対する相手は、中国武術服を着ている。高校生の拳二より、ずいぶん年上だ。

「えーと、剛拳二です。少林寺拳法やってます。初めてです。よろしくお願いします」

「あ、ご丁寧に。阿形です。八極拳です。5回目の出場です」

「えっ、ベテラン! お手柔らかに…」

そういいつつ、拳二は内心喜んでいる。高校の少林寺拳法部では、自分より経験の浅い先輩たちに遠慮の毎日だったからだ。

とはいえ、八極拳とはどんな武術なのか、皆目見当がつかない。

拳二は、軽く構えを取った。

右足を少し引き、両手は自然体からすっと前へ。少林寺拳法特有の、掌を低くおろした一字構えだ。

対する阿形は、両足を肩幅よりやや広く開き、重心を低く落とした。

拳は胸元に構える。静かだが、圧がある。

拳二は、さて、どう攻めて良いものやらわからない。そもそも、少林寺拳法には攻める技がない。相手の出方を、待つことになる。

ドンッ!!

床が鳴った。

阿形が踏み込んだ音だ。

八極拳特有の震脚(しんきゃく)踏み込みで地面を震わせ、その反動をそのまま打撃に乗せる。

拳二は一瞬、びくっとしたが、震脚を知らないわけでもない。庵天先生に習った記憶がある。

だが、滑り込むように一気に距離を詰める八極拳の戦法に、拳二はひるんだ。

「近ッ!」

拳二はとっさに、前で構えた掌ではたき落とすように阿形の突きを受け、後ろ足で蹴り返そうとしたが、

ドゴッ!

衝撃が腕を突き抜ける。

「うおっ……!」

受けたはずなのに、押し込まれる。

阿形の拳が、体ごと突き抜けてきた。

拳二は思わず、飛び下がった。

 

「ありゃ、八極拳じゃな」と東山先生。

「本人がそう言ってましたよ」と太児。

「年よりは耳が遠いんじゃ!」

「すみません…中国拳法ですよね」

「そうじゃ。接近戦が得意な武術で、猛烈な爆発力で体当たりをぶちかましてくる拳法じゃ。昔、少年サンデーのマンガで一世風靡をしたんじゃが、お前たちの年代は知らんのじゃのう」

「すみません、知らないです…」

「軍隊も採用した実戦本意の武術じゃ。あやつ、手加減できるんじゃろか?」

「拳二は手加減上手ですけどね。毎日、ヘタクソな先輩相手に手加減してるみたいですよ」

「少林寺拳法は、相手をケガさせない仏の精神じゃからなあ。しかし、その気持ちのままだと、八極拳相手は厳しかろうの」

 

再び距離をとって向かい合う二人。

少林寺拳法の受けは、流し、崩し、制する。

だが八極拳は違う。

受けさせてから、押し潰す。阿形の腕が、まるで丸太のように突き込んでくる。震脚と同時に、腰から背中へと波のように力が伝わり、そのまま拳に到達する。

拳二は、一字構えを立て直し、呼吸を整える。

その瞬間、再び震脚。

ドンッ!!

再び真正面から滑り込むような踏み込み。

拳二は半歩、横へ。

掌で阿形の前腕をわずかに流し、その手首に自分の掌を巻きつけた。

(逆小手!)

ドンッ!

阿形がさらに踏み込んできた。体を入れ替え、前腕を立て、肘を拳二の腹にえぐりこんでくる。

「どひゃっ!」

拳二はなんとか受けきったものの、勢いでコートの枠の外まで転がった。

 

「ほう…よう逃げおったな」と東山先生。

「関節技が決まらず、押しきられたかんじですけど」と太児。

「いや、間合いを読んできとるよ」

観客席側では、タコ焼きを頬張るテツが、ぼそり。

「拳二、勝たれへんやろ。とっとと負けといたらええねん。銭にもならんし」

美鈴がタコヤキを頬張りながら相槌を打つ。

「拳ちゃんじゃ、私みたいに心理戦には持ち込めないわ」

伊東道戒は静かに言う。

「執着を捨てれば状況は変わるかもしれません」

 

拳二がコートに戻った瞬間、

ドンッ!!

再び震脚。踏み込みと同時に、肘が飛ぶ。八極拳の真骨頂、体当たりのような肘打ち。

拳二は受けず、半身になり、掌でわずかに軌道をずらすが、

ズドンッ!

「ぐっ……!」

肘は逸れたが、肩がかすめた。衝撃で身体が横に流れる。

八極拳は止まらない。一撃が流れれば、二撃目、三撃目。蹴りが同時に飛んでくる。

拳二は、必死になって捌くが、反撃の間もない。

阿形はそのまま踏み込み、短い拳を打ち込みながら、拳二に密着、片手で拳二の腰を抱きかかえた。

身動きの取れなくなった拳二の胴に、阿形は掌を向ける。

「大纏!」

叫んだのは、観客席にいた小学生くらいの女の子だ。

「ん? 誰?」

「高杉凛です…」

阿形の掌が、拳二の胴に深くめり込んだ。

ボンッ!!

観客席が一瞬、静まり返る。

拳二の身体は大きく揺れたが、倒れない。

「……?」

拳二は、打たれた瞬間、完全に力を抜いていた。

受けきろうとも押し返そうともせず、息を抜いた。

観客席で伊東道戒が小さくつぶやく。

「…手放しましたね」

東山先生が目を細める。

「勝ち気を捨てたか…」

太児がつぶやく。

「化勁?」

阿形が再び踏み込む。

ドンッ!!

震脚。

だが宙を舞ったのは阿形だった。

「海底翻花だ」

つぶやいたのは太児だ。

拳二は、押さず引かず、その場で身を翻しただけだ。

阿形は八極拳の爆発力が、暴発したかのように、弾けて跳んだ。

まっさかさまにひっくり返った阿形の頭が地面に激突する直前、拳二は阿形の手を引いた。

背中から地面に軟着陸した阿形は、ゆっくり立ち上がり、頭を振って、言った。

「…参りました」

「えっ?」

「君は、戦わずして、勝ちに執着していた私を無にした」

拳二は慌てる。

「え、そうなの? いや、そんなつもりじゃ…」

阿形は軽く笑って、深く一礼。

拳二も慌てて礼を返す。

勝敗は誰も宣言しない。

拳二はコートを降りながら、思う。

(勝ったのか? 負けたのか?)

控えコーナーに戻ってきた拳二に二人が声をかけた。

「少林寺拳法じゃなかったのう」

「太極拳だったね。拳二、覚えてたんだなー」と太児。

「いや、もういいやって思ったら、勝手に体が動いたんだ…」

屋台に戻ったテツがタコ焼きをひっくり返しながら言う。

「あんなハッキリせん勝負、バクチやったら暴動が起きるわ」

伊東道戒が微笑む。

「得意を手放したら、自然な動きが出たのです」

テツはうなずく。

「ま、手に汗は握ったな。ドリンクもう一杯タダにしといたるわ」

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