ディストピア小説「太児」第二十五話

この物語はすべてフィクションです。

第二十五話 陳発科と陳照旭と紅衛兵と世界征服計画のこと

なんだかしっくりこない一日を過ごした夜、太児はベッドに寝転んだ。もう、クーラーを入れなくても涼しい。

網戸の窓から秋の虫の声がきこえる。

リーリーリーリーリー、ガチャガチャガチャ、チンチロチンチロチンチロリン、日本人は虫の声も言語として聞いているそうだ。欧米人や中国人は、単なる音として聞いているらしい。

そんなことを考えながら、眠りにおちようとしている時、木玉が光った。

 

黄色の土煙が風に舞い、麦畑のざわめきが村を包んでいた。石垣と土壁の家々が寄り添うように並び、村人たちは鍬を振るい、広場では太極拳の型を繰り返している人々がいる。

(ああ、ここは陳家溝だ…)

だが、前に来た時とは少し雰囲気が違う気がする。

太児は陳家溝の路地をさまよった。

どこかで咳き込む声がする。振り向くと、痩せた少年が崩れた壁に腰をかけて肩で息をしていた。太児と同い年くらいに見える。

「大丈夫?」

太児が声をかけると、少年は弱々しく笑った。

「大丈夫。武術の練習をしているんだ」

「君が武術を? 人のことは言えないけど、体も弱そうだし、…ドンくさそう…」

「父さんや伯父さんたちは、ぼくが継がないと、陳家の拳術が途絶えてしまうっていうんだよ。でも、体が弱くて、息が続かないし、他の子たちと練習もできない…」

その瞳には、おどおどして自信がなく、子供の明るさもない。

「おい、発科(はっか)。サボってないで練習しろ!」

広場から、誰かが声をかけた。

その名に太児は息をのんだ。陳発科といえば、陳氏太極拳の伝承者の名だ。楊露禅からは二代後の代になる。

…ということは、この時代は、前に来た時代より、現代に近い時代ということか?

陳発科は「拳聖」と呼ばれる人物のはずだが、目の前にいるのは、病弱な少年だ。

発科と声を掛けられた少年はゆっくり立ち上がった。

「休憩ばかりじゃだめだね。練習しなきゃ…」

立ち上がると、ひょろっとして、わりと背は高い。

月明かりの下で、ゆっくりと套路をなぞるが、太児から見ても、弱弱しい。

「……ごほっ、ごほっ……」

(僕より、ずっと弱っちい……)

太児は彼のそばに歩み寄って言った。

「……あの、こうすると楽かも」

そう言って、庵天先生から習った呼吸の仕方、お腹に空気をため、足裏で大地を感じる「立禅」の姿勢を真似てみせた。

「…ちょっと楽になったよ。きみ…、誰なの?」

「え、あ…太児っていいます」

「村の子じゃないね。ありがとう」

少年は弱々しく笑った。

緩やかな円を描き、虚弱な身体から、少しずつだが、柔らかい気の流れが生まれていく。

太児は、しばらく陳発科の動きを見ていたが、不意に声を掛けられた。

「…太極とは、無から有を生み、柔から剛を制する理。病弱な身であろうとも、己の内に気をめぐらせ、静中に動を見出せば、やがて剛力すら凌ぐことができるのじゃ」

「…その声は…もしやして陳王廷老師?」

「さよう。陳発科はワシから八代後となる者」

「王廷老師は行ったり来たり、自由自在なんですね」

「さよう。お前やお前の師匠達も、ワシが行ったり来たりさせておるのじゃ。陳家の武術が未来永劫続いていくように歴史を見守り、多少は操作もしておる。まあ、夢の中にちょこっと入りこんでいるだけじゃが」

「そうでしたか…。それにしても伝承者に虚弱体質の人がいたんですね……虚弱だからこそ、できることがあるとか?」太児は問い返す。

「そうじゃ。強者は力に頼るが、弱き者は理にすがる。理こそが、やがて万を制す剣となるのじゃ」

太児の胸に深く刻まれた。

「太児。陳発科の姿をよく見ておくといい…」

 

暗くなってきた景色が、青白い光に包まれ、再び黄昏時に戻った。

陳発科はまだそこにいる。

しかし、さきほどとは様子が違っていた。

顔色は青白いが、立ち姿に揺らぎがない。体はガッチリし、息に乱れがない。拳を繰り出すたびに、土煙が小さく舞い上がる。

「……すごい……」思わず太児は声をもらした。

発科は笑い、汗をぬぐった。

「やあ、太児くんか。久しぶりだね。おかげでまだ元気に続けていられるよ。…君はあまり変わらないな」

 

そしてまた青白い光に包まれる。

次に太児が見たのは、先ほどとは変わって、都会の景色だった。

そこには成長した陳発科がいた。彼は洛陽や北京に出向き、数々の武芸者と手を交えた。比武(武術試合)では次々と挑戦者を退けた。

彼の太極拳は「四両撥千斤(よんりょうはつせんきん)」の妙理を体現していた。

かつて病弱で馬鹿にされていた少年は、今や「拳聖」と称えられていた。都会の武林の人々の度肝を抜くほどの功夫があり、しかも礼儀正しく気配りがあり、謙虚な人柄が知られていた。

「太児君かい。久しぶりだね。……柔よく剛を制す。体が弱かったからこそ、極意が掴めたよ。それにしても君は変わんないなあ」

太児は、胸の奥が震えるのを感じていた。

(僕も……強くなれるのかな…)

「武術は…己の弱さを知り、付き合っていくのに役立ったよ。強い人の真似をしても、本物にはなれない。弱いから理がわかった。力に逆らわず、自然に生きる。それが太極拳だね」

その眼差しには、病弱だった頃の面影はもうなかった。

「強さとは、他人を打ち倒すことじゃない。世のため人のために役立つ力を持つことだよ」

太児は思わず問い返した。

「でも…世の中には、力で人を縛ろうとする人もいる。どうすればいいの?」

陳発科は、静かに言った。

「人のことはどうしようもない。自分が正しい武であることだね。正しい武は、決して滅びない。正しい心を持たない者が力を持てば、自らの暴力で亡びるだろう…」

その言葉は、太児の胸の奥深くに突き刺さった。

 

青白い光が表れ消えると、そこは赤い世界だった。

太児は、荒れ果てた広場に立っていた。

紅衛兵の赤い腕章を巻いた子供や青年たちが、竹槍や鉄棒を振り回し、「造反有理!」と叫びながら群衆を押しのけている。

壁には大きな毛沢東の肖像画と、大字報が貼られ、墨の匂いが漂っていた。

「ここは……どこ……? また現代に近づいた……?」

太児は周囲を見渡す。

かすかに聞き覚えのある姓を呼ぶ声を耳にした。

「陳照旭! 逃げるな!」

太児の目に映ったのは、鉄条網を越えようとするひとりの中年の男。

やせた顔つきに、鋭い眼光を宿したその人は、陳発科が語っていた「わが子」の名と一致していた。

「陳照旭……?」

銃声が鳴り響いた。

乾いた破裂音が夜空を裂き、男の体が仰向けにひっくり返る。

赤土の地面がじわりと黒く染まっていった。

群衆の一部は罵声を浴びせ、一部は顔をそむける。

誰も助けようとはしなかった。

太児は、その場に立ち尽くすしかなかった。

武術の名門に生まれながら、革命の嵐に呑まれ、撃ち殺される。

「これは武じゃない……暴力だ……!」

紅衛兵たちは満足げに銃を掲げ、群衆に「人民の敵を打ち倒した!」と叫んでいる。

太児の目に映るのは、恐怖と狂気の連鎖だった。

太児は膝をつき、こらえきれずに涙をこぼす。

(…未来はどうなるんだ?)

紅衛兵たちは、赤旗が夜風にはためく中で、照旭の体を探っている。

「あったぞ。これだ」

紅衛兵の一人が高く上げたものは、なにやら字が書かれた小さい玉のようだった。

「あれは?」

太児は思わず自分の持っている木の玉を、袋の上から握りしめた。青白い光が太児を包み込み、紅衛兵たちが陳照旭の亡骸を荒々しく担いで去っていく姿が見えなくなっていった。

 

光が消えると、世界地図が表れた。多くの国々が赤く染まっている。

アジア、中東、アフリカ、ヨーロッパまで…。

C国が軍事と情報を駆使して世界を呑み込もうとする姿が目の前に広がる。

武が、国家の「支配と征服」の道具へと歪められて、暴力と強権が世界を縛ろうとしている…

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