学問小説「太児」第二十六話

この物語はすべてフィクションです。

第二十六話 邯鄲の夢と王朝の変遷のこと

太児が目を覚ますと、自分のベッドだった。

うつらうつらとしたのは、10分前だが、汗をびっしょりかいていた。

相変わらず、秋の虫が、リーリーリーリーリー、ガチャガチャガチャ、チンチロチンチロチンチロリンと鳴いている。

これが「邯鄲の夢」というものか…。

眼の奥には、赤土に倒れた照旭の姿が焼きついたまま離れない。

 

あの夢はただの幻だったのか。

知りたい。陳照旭が生きた時代を。陳王廷が、楊露禅が、陳発科が、拳を磨いた世界を。

小学校の社会の授業では、世界の歴史はまだ学んでいない。

太児は図書館に行って、本を広げ、パソコンを開き、中国の歴史を検索し、ウィキペディアを読み込む。

わからないことはお父さんに聞いた。

「世界史に興味があるのかい? そりゃいいことだ。でも、その前に、日本史も知っておかないとなあ」

お父さんは学校の先生でもないのに、社会の教科書なども持っていた。

「学校の教科書は普通、一般に販売されないものだけど、これは学校で使われているのとほぼ同じ、とても詳しくていい教科書だよ」

見せてくれたのは、中学生向けの「国史教科書」(令和書籍)だった。明治天皇の玄孫(やしゃご/孫の孫)の人が作ったそうだ。

はじめの方に、世界の国の年表が載っていた。

お父さん講義を受けて、太児は驚いた。

日本は、昔から日本で、太児はそれが当たり前だと思っていた。

日本は昔から日本、アメリカは昔からアメリカ。

中国は、国の名前が変わって武術家が迫害されたような話を庵天先生から聞いた気もするが、四千年の歴史ある国だと思っていた。

日本は西暦紀元前660年に神武天皇が即位して国が始まり、統治者も人民もみんな変わることなく日本人だ。

日本と呼ばれる前は大和(やまと)とよばれていたようだが、2000年以上ずっと日本人の国でありつづけている。

日本しか知らなければ、「国が変わる」なんて、思いもよらない。

でもそれは、世界の標準ではなくて、極めて稀なことだったのだ。

たとえばアメリカができたのは、1776年。まだ300年も経っていない。それまでは、ネイティブアメリカン、いわゆるインディアンが大陸に住んでいたらしい。

ヨーロッパから来た白人が、インディアンを征服してできたのがアメリカだ。

インディアンは、国という考え方を持っていなかったかもしれないが、それ以前にも、歴史はあったはずだ。

でも、どこにも書かれていない。酷い話だ。

逆に、中国四千年の歴史はややこしすぎる。

お父さんによると、四千年の歴史といわれているのは、「中国4000年の幻の麺 中華三昧」というラーメンのコマーシャルからきているそうだ。

ジブリ映画のキャッチコピーも作っている人気コピーライターが作ったらしいが、実は、中国は四千年も続いていない。

太児が中国だと思っていた中華人民共和国が成立したのは、1949年。まだ100年も経っていない。

その前は、中華民国。別の国だ。1912年にできた。

共産党に負けた国民党は、大陸から追い出され、中華民国政府は、現在、台湾に移っている。

その前は清。1616年に建国。満洲人の愛新覚羅(あいしんぎょろ)氏が漢民族を征服してできた王朝だ。

楊露禅は、その清王朝の皇族の武術教師を務めていたと、これは楊露禅本人から聞いた。

その前は明(みん)王朝。漢民族の国だ。1368年から1644年まで存在している。

「清と、かぶってるじゃん…。ややこしいな」

陳王廷は1600年から1680年ごろの人なので、明と清にまたがって人生を送ったことになる。

「激動の時代だったんだろうな…」

この時代には、アメリカなんて、まだない。

陳王廷が生まれた西暦1600年は、日本では慶長5年。関ヶ原の戦いがあった年だ。

のちに徳川家康が江戸幕府を開き、大坂城は落城して、豊臣氏が滅亡した。日本も激動の時代だったのだ。

しかし、政権が豊臣氏から徳川家に変わったとしても、今でいえば政党が変わったようなもので、日本という国が変わったわけではない。

明王朝の前は元(げん)。モンゴル帝国だ。

現在の中華人民共和国より、ずっと広範囲の、東南アジアからヨーロッパまで支配していた。

蒙古民族に押され、漢民族は、隅っこの方でしゅんとなっていたことだろう。

その前は、金と南宋。その前が北宋。遡って、五代、唐、隋、南北朝、東晋と五胡十六国、西晋、そして三国志の魏、呉、蜀、その前が、後漢、前漢、そして、初代皇帝があらわれた秦。

秦のころから、今の中国の辺りは、シンとかチンとかシナとかチナとかチャイナとか呼ばれるようになったようだ。秦から音を取った呼び名で、「支那」は梵語の当て字らしい。

外からの呼び名は引き継がれても、内側では、統治者も民族も、入れ替わりつづけている。

そのたびに、多くの血が流れた事だろう。

初代皇帝が現れた秦のころ、百年ほどのズレはあるが、日本では初代天皇である神武天皇が即位している。

それ以前の日本の歴史は、神話の世界だ。

伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)が国を生み、天照大神(あまてらすおおみかみ)が引きこもりになって、須佐之男命(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、なんだかんだあって、山幸彦の孫が、大和で神武天皇になったと、古事記には書かれている。

一方、支那の方は、秦以前にも、王朝がいくつも入れ替わっている記録がある。

せわしないことこの上ないのが、支那の歴史だ。

そう考えると、支那では、国家より、武術の方が、だんぜん歴史が長いといえる。

「なるほどなあ。新しい王様にとって、武術の家ってのは恐ろしい存在だったのかもしれないな」

太児は思わずつぶやいた。夢の中で見た照旭の姿が重なる。

武術には国をひっくり返すほどの力があることを、支配者は十分に知っており、武術家を恐れたのだ。

ノートに太児は書いた。

「日本=ずっと日本。アメリカ=300年。中国=めまぐるしい」

その横に、気づいたことを加えた。

「武術=国より長い」

書いた瞬間、胸の奥が熱くなった。

国が滅びても、時代が変わっても、武術は受け継がれ、生き続けてきた。

武術家たちが命を賭けて守ったものを、いま自分も受け継ぎつつある。

太児はノート眺めて、深く息を吐いた。

「ぼくも…つながってるんだな」

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