この物語はすべてフィクションです。
第四十六話 太極拳の套路のこと
「たいていの武術は、対人間用に作られている。マサイ族はライオン相手に戦うそうだが、我々の武術はライオンや熊を想定していないし、ゾンビも想定していない」
庵天先生が皆に言った。
「だから、ゾンビに出会っても、戦おうなんて思わないことだ。ただ、今回のように、どうしても対処せざるを得ない場合があるかもしれない。そうなったら必要なのは、武術じゃなくて兵法だ。テクニックじゃなくて作戦。戦術、戦略だな。個人プレイじゃなくて、チームワーク。肉体より頭脳。目的はゾンビに勝つことじゃない。生き延びることだ。智力、体力、時の運すべて総動員して、生き延びるんだ」
一同、真剣な顔になる。
「どないしたら、戦略の勉強なんかできるん?」と晶。
「囲碁や将棋、チェスなんかは、戦略を練るためのゲームだった」と庵天先生。
「コンピューターゲームもあるよ。三国志とか信長の野望とか」と拳二。
「やったことある」と太児。
「可愛いのがいいわ」と美鈴。
「今どきは、いろいろあるかもしれないな。そういったゲームで、戦略を立てる感覚を養っておくといいよ。友達同士や家族で楽しくやるのもいいだろう」
「イエーイ! 堂々とゲームができる!」
「ゲームしてりゃいいってもんでもないけどな…」
庵天先生は苦笑い。
「さて、太極拳は武術ではあるが、ただの殴り合いじゃない。知力、体力、時の運、相手の力や地球の力もすべて使う。戦術、戦略も含まれているんだ。それを表しているのが套路だ」
「套路って、型のことだよね」と拳二が聞く。
「そうだが、その組み合わせ、流れが戦術になっている。はじめはわからんかも知らんが、体が勝手に動くほど練り込んでいけば、その意味に気づいて感動するぞ」
「へえ! すごいのね!」
「どのくらいでわかるようになるん?」
「ま、早くて10年ってとこか」
「ええーっ!」
「マジメに取り組まないと、何十年やってもわからん」
「えええーっ!」
「この業界、わからん人がほとんどだ」
「ええええーーーーっ!」
「お前たちにはわかるように教えるから安心しろ」
「ほんとにぃ?」
「素直に練習すれば、10年もかからんかもな」
太児は、10年後どのくらい太極拳を知ることができるのだろうと想像して、嬉しいような、怖いような気がした。
「套路ってひとつだけなん?」と晶が聞いた。
「たくさんあるが、まずは基本的な、長いのを一つ、徹底的にやる。武術的な体の使い方は、この第一路でだいたい養える」
「長いって、どのくらい?」
「72の動作がつながっているのを15分くらいかけてやる」
「72もあるの!?」
「長い!」
「繰り返しの動作もあるし、どの動作も太極拳の原理に基づいているから、思っているほど複雑でもないよ」
「刀の套路もあったよね」
「ああ、武器の套路もやっていく」
「武器!」と拳二が目を輝かせる。
「棍、大刀、剣、槍、など、いろいろあるが、どれも太極の原理に基づいている。これも戦略的に練習していく」
「戦術、戦略…練習にも頭を使うんだね」と太児がつぶやいた。
庵天先生がにっこりと笑った。
「その通り。太極拳は、体を使って、心を整え、頭を働かせる。拳術や武器が上手になるだけじゃないし、強くなるだけでもじゃない。生き方そのものが変わってくる。太極門の生き方だ」
「太極門って?」
「宇宙の中で自然に従って生きることだ。套路は宇宙の物語でもある。ま、とりあえず練習だ」
庵天先生が、落ち葉の重なる芝生の上で、4人に背中を向けて立ち、4人は庵天先生の背中を見て、まっすぐに立った。
「まずは起勢(きせい)から金剛搗碓(こんごうとうたい)」
一同、静かに動き始めた。
湖面に反射する朝の光がキラキラ光っている。
套路が始まってから、およそ20分。
「…収勢。これでおしまい」
庵天先生が手を下ろし、足を揃えた。
一同姿勢を崩す。
「全然わからへんかった!」と晶。
「俺も。どっち向いてるのか分かんなくなった!」と拳二。
「ついていけなーい」と美鈴。
「同じ動作が何度もあった?」と太児。
「とりあえず最初から最後まで通してみた。わからなくても、覚えられなくても、あせらなくていい。体になじませていくんだ」
しばらく、手足をほぐす体操をする。
「体で覚えるとは言ったが、頭でもわかったほうがいい。次は、それぞれの動作の名前の意味を説明しながらやってみるぞ」
庵天先生がまっすぐに立った。
「まずは準備式(じゅんびしき)。中国語の発音だと、ジュンベイシー(zhǔn bèi shì)。何気なく足を広げるんじゃない。ここからすでに武術だ」
「起勢(きせい/qǐ shì )は、物語の始まり」
「金剛搗碓(こんごうとうたい/jīn gāng dǎo duì )。金剛神が碓(うす)を搗(つ)く」
「懶扎衣(らんさつい/lǎn zā yī )。衣を巻き上げている形だ」
「六封四閉(ろくふうしへい/liù fēng sì bì )。六を封じて、四を閉じる。相手を完全に封じ込めるってことだ」
「単鞭(たんべん/dān biān)家畜を追い回すときに使う一本の棒。ここまでは前に説明したな」
「白鵝亮翅(はくがりょうし/bái é liàng chì )は白いガチョウが羽を広げて日光浴している様子だ」
「斜行(しゃこう/xié xíng )は名前の通り、斜めに進む」
「搂膝(ろうしつ/lōu xī )。膝をたくしあげる」
「拗歩(ようほ/ào bù )。手足が互い違いに進む」
「掩手肱拳(えんしゅこうけん/yǎn shǒu gōng quán )。肱(ひじ)と拳を、手で掩って隠している、この形のことだ」
「撇身捶(へいしんすい/piē shēn chuí )。撇は払う。捶は打つ意味」
「青龍出水(せいりゅうしゅっすい/qīng lóng chū shuǐ )。龍には烏龍、青龍、黄龍があるが、青龍は、激しい動きをする龍だ。水面から飛び出して襲ってくる青龍と戦っている形だ」
「双推手(そうすいしゅ/shuāng tuī shǒu )。両手で推す。 これはそのままだな」
「肘底看拳(ちゅうていかんけん/zhǒu dǐ kān quán )。肘の底に拳が見える」
「倒巻肱(とうでんこう/dào juǎn gōng)後ろに下がる動作だが、倒は逆になるって意味。逆さまに巻き込むって意味だ」
「閃通背(せんつうはい/shǎn tōng bèi )。素早く後ろに向き直る」
「雲手(うんしゅ/yún shǒu )。フワフワ流れる雲のよう」
「高探馬(こうたんま/gāo tàn mǎ)。は、暗闇で馬を手探りしてるようすで、擦脚(さっきゃく/cā jiǎo )は、馬に乗る動作。蹴りにも使える。乗馬は軍事訓練だったんだ」
「蹬一跟(とうきゃく/dēng yī gēn )。蹬はペダルを漕ぐ意味。跟(かかと)で押し込むように蹴る」
「前趟拗歩(ぜんしょうようほ/qián tāng ào bù)。趟は大またで歩くこと」
「撃地捶(げきちすい/jī dì chuí)。地面を打ち叩く」
「踢二起(てきにき/tī èr qǐ) 。飛び上がって2回蹴る。「二起脚」(にききゃく/èr qǐ jiǎo)ともいう」
「護心拳(ごしんけん/hù xīn quán )。拳で心臓を護る」
「旋風脚(せんぷうきゃく/xuàn fēng jiǎo)。 旋風(つむじかぜ)のように足を振る」
「小擒打(しょうきんだ/xiǎo qín dǎ )。小さく捕まえて打つ」
「抱頭推山(ほうとうついざん/bào tóu tuī shān )。この形は頭を抱えているように見えるだろう。このあと、山を推す」
「前招(ぜんしょう/qián zhāo)。前に招くと書くが「招」は「招く」意味ではなくて、「技」とか「方法」といったニュアンスだ。左右の手を入れ替えると、後招(こうしょう/hòu zhāo)」
「野馬分鬃(のまぶんそう/yě mǎ fēn zōng )。野生の馬が鬣(たてがみ)を分けて靡かせて走るようす。鬣を分けるのは風や雨なんだが、風と水は風水、つまり自然を表している」
「玉女穿梭(ぎょくじょせんさ/yù nǚ chuān suō )。玉女が機を織る。玉女は年頃の娘のことで、天女や仙女が行き交うイメージだな」
「うちらみたいなガールズってこと?」と晶が聞く。
「お前らは幼女だ」 と庵天先生が鼻で笑う。
「失礼ね!」と美鈴。
「擺脚(はいきゃく/bǎi jiǎo )は足を外に振り動かす」
「跌岔(てっさ/diē chà )。跌は、つまずくとか転ぶイメージで、 岔は分かれるとか、 そらすってニュアンスだ。地面すれすれまで低く沈み込む」
「金鶏独立(きんけいどくりつ/jīn jī dú lì )。金の鶏が片足で立つ。金鶏は尾っぽの長い金色の鳥だ。動物園にいるぞ」
「十字手(じゅうじしゅ/shí zì shǒu )。十字は交差していることだ。腕を交差させるのが十字手で、手と足を交差させると、十字脚(じゅうじきゃく/shí zì jiǎo )」
「指襠捶(しとうすい/zhǐ dāng chuí )。股を指して打ち落とす」
「痛そうだな…」と拳二。
「そうなの?」と美鈴。
「いや、男子の急所を打つと限ったわけでもない。そして、打ち落とした後は打ち上げる動作につなげる。猿猴探果(えんほうたんか/yuán hóu tàn guǒ )は、猿が果物を探すようす」
「雀地龍(じゃくちりゅう/què dì lóng )孔雀が羽を広げているような、龍が地を這うような」
「上歩七星(じょうほしちせい/shàng bù qī xīng )。上歩は前に進むこと。七星は北斗七星のことだ。頭、肩、肘、拳、胯、膝、脚の七つで敵を打つ」
「下歩跨虎(かほここ/xià bù kuà hǔ )。後ろに下がって虎をまたぐ」
「當頭砲(とうとうほう/dāng tóu pào )。砲は大砲とか爆竹のことだ。頭の前で爆発するってかんじかな?」
「収勢(しゅうせい/shōu shì)。勢いを収める。これでおしまい」
一同、手足をプラプラさせて体をほぐす。
「なんだかファンタジーな名前をつけたんだね。昔の人は」と拳二。
「そうだ。何をどうすると表さず、イメージを名前にしたものが多いな。ふんわりしたイメージだと、動作は無限に応用がきくが、名前で動作を限定してしまうと、応用がききづらい」
「名前って大事なんだね」と太児。
「たかが名前だと思うかもしれないが、けっこう重要だ。練習するとき、ガチョウとか馬とか猿とか龍とかを、思い浮かべるといいよ」
晶「ガーガー」
太児「ヒヒーン」
拳二「ウッキッキ」
美鈴「ゴホッホグアラグアラ」
「最後のは何だ?」と庵天先生が聞く。
「龍の声…」
「そうか…ユニークだな…」
太陽が南にあがるまで、一同、套路を何度も繰り返したが、もう汗だくになるような気候でもない。気持ちのいい時間だった。

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