小説「太児」第六十話

この物語はすべてフィクションです。

第六十話 ミスタートニー谷参上のこと

どこから現れたのか、細身でスーツ姿の男が、芝生の上に立っていた。

蝶ネクタイをして、やけに前歯が長い。

「えっ……?」

周囲の人たちが、一斉に彼を見る。場違いな雰囲気に、一瞬ざわつく。

「ミーは旅の者ざんす。全国の武術道場を巡って、強敵を探しているざんす」

男は、フワフワと芝生を歩き、指先をヒラヒラさせながら話す。

「ところがどっこい、この陵森公園…年寄りばかりでがっかりざんす。でも、そこのボーイ、ちと活きがいいざんすね」

みんなの視線が、太児に集まる。

「ユーと、お手合わせ願いたいざんす」

太児は、男をチラチラと見ていたが、おずおずと会釈した。

「はい…。よろしくお願いします」

「おおっ、よござんす! ナンパ拳法がお相手するざんす!」

「……ナンパ拳法って、なんだ?」

井上さんが眉をひそめて呟いた。

「うっしっし。中国南方に伝わる伝統拳術をもとに、ミーが独自に編み出した愛と欲望と家庭の事情の融合武術ざんす!」

周囲はあ然としている。

「太児くん、大丈夫かい?」

東山先生が芝生の隅から声をかける。

「まあ、ちょっとした交流でしょうし…」

太児は無理やり笑顔を作った。

二人は向かい合い、手を軽く合わせる。

「レディ、セッツゴーざんす!」

出っ歯の男が仕掛けてくる。まるでダンスのステップのように、軽やかに滑り込み、ひねり、腰を絡めてくる。

(このリズム…なんだかよくわからないけど…武術だ!)

太児は流れるように受け、回転する。ひとつ、ふたつと技を交わしながら、男のリズムを見極めていく。

「おおっ、ノリがいいざんすね! これはどうざんしょ…ハッ!」

男が突然、腰を落とし、足を交差させ、太児の背中に回り込んだ。

だが、太児の体は自然に沈み込み、その力を受け流す。

「おっとと…!」

次の瞬間、男の片足がふわっと浮き、くるりと回転した。回転するコマとコマが戦っているようだ。

太児の背中越しに、出っ歯の男の腕が伸び、腕の内側を太児の首を絡めた。太児は腰を落とし、腕をすり抜け、出っ歯男の股の下に脚を差し込んだ。

太児の肩が、出っ歯男の脇腹を押す形だ。

(このまま立ち上がれば、吹っ飛ばせるけど…)

そう思ったが、やっていいものか、一瞬迷う。

すかさず出っ歯男の足元が、ぐるりと円を描いた。まるで円盤を回すような動き。

(あっ、掃腿? 久しぶりに見た!)

足に気を取られたところを、男は片手を伸ばして前に突き出し、もう片手を頭上に掲げたかと思うと、体を回転させながら太児の脇へと滑り込んだ。

(えっ、八卦掌?…でもない?)

円を描くように動きながら、常に死角から攻める武術。一見、ふざけているように見えるが、動きに無駄がない。

これは本物だ。公園のお年寄りたちのナンチャッテ武術じゃない。

「ふふん。ついて来れるざんすかね~」

男は、太児の横をすり抜けたかと思えば、すぐ背後に現れ、掌をそっと肩へ当てる。

そのまま体を一回転させて、今度は脚を絡めて倒そうとする。

太児は、片足を上げてかわした。

「なかなかやるざんす!」

男の体がひときわ大きく旋回し、両手を広げたかと思えば、右手で太児の右腕をつかみ、左腕を、太児の胸に押し当てた。

「肘関節いただいたざんす。フィニッシュざんす!」

太児は、右人差し指を天に向けた。いただかれたはずの肘を、下に沈め、腰も沈む。

スッコーン。

ひっくり返ったのは、出っ歯男のほうだった。

「おっと、危ない」

太児は、絡まっていた腕を引き上げ、男が頭を打たないように、回転させると、出っ歯男は軽やかに芝生を転がり、立ち上がった。

「ナイスざんす!」

「だいじょうぶですか?」

「一本取られたざんす! ユー、ただ者じゃないざんすね…名前を聞いてもいいざんすか?」

「柔太児です」

「ミスター太児、覚えたざんす。ミーは、トニー谷ざんす。こんな若者に出会えるとは、武術巡りも悪くないざんす!」

男は、ニッコリ笑って、親指を立てた。

太児も、あわてて礼を返す。

「あ、ありがとうございました。ナンパ拳法、面白かったです」

「サンキューベリーマッチ! シーユーアゲイン! また近いうちに会うざんす!」

そう言い残し、ひらひらと手を振りながら去っていった。

その背中を見送りながら、東山先生が一言。

「なんじゃったんじゃろ? 」

太児は、深呼吸をし、芝生の空気を味わった。

妙さんが太児に声をかけた。

「あら、後ろの襟に何か挟まってるわよ」

首元を探ると、折りたたんだ紙が挟まれていた。

紙を広げると、こう書いてあった。

「ユーは合格ざんす。裏武術界の交流会に招待するざんす。次の日曜日の夜、縦浜の下山公園に来るざんす」

裏武術界? なんだか怪しい…

横から覗き込んだ東山先生が軽い調子で言った。

「ほーなんじゃろ。ワシも一緒にいこうかの。面白そうじゃ」

妙なことになったなあ…と太児は思った。

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