教育小説「太児」第四十八話

この物語はすべてフィクションです。

第四十八話 心神喪失とインテリジェンスのこと

「この前の通り魔は、どうやら心神喪失ということで、無罪らしい」

お父さんが新聞を読みながら言った。

「心神喪失って…?」

太児が沢庵をかじりながら聞く。

「心神喪失っていうのは、精神的な病気などが原因で、妄想・幻覚に取りつかれて、現実が認識できなくなって、錯乱状態になってることをいうんだ。刑法第39条では「心神喪失者の行為は、罰しない」となっている。刑事責任能力がないってことだな」

「あの通り魔の人は、牢屋に入らないってこと?」

「そういうことになるな。当然、強制入院とかで世間とは隔離されるだろうが、死刑とか懲役にはならないってことだ」

「もし人を殺していても…ってこと?」とお母さんが聞いた。

「そうだ」

「だれも責任を負わないってことなの?」

「親とか家族とか、監督義務者がいれば、そちらに訴えることもできるだろうが、本人には賠償責任もない。そもそも責任を取る能力がないからな」

「じゃあ、殺され損ってことだね…」と太児。

「おいおい、損得の問題でもない。殺され得ってことはないわなあ。たとえ相手が責任能力のある大金持ちでも、殺されて得することなんてない。殴られたり、奪われたりで、死ななかったとしても、賠償請求できたとしても、やられて得なんてないんだよ」

「それは、そうよねえ」

「誰も怪我しなくて良かった…」

「それはすごいことだよ。お前たちがちゃんと動いたからだな。お父さんはお前を誇りに思うよ」

「えへへ…」

「でも、無茶は禁物だ。怪我したり死んだりする恐れはあったんだからな」

「そうよ。お母さん、心臓が止まる程ビックリしたんだから。もう無茶しないでね」

「気をつけます…」

「とはいえ、自分は自分で守らないといけない。相手が有罪だろうが無罪だろうが、こっちには関係ない。悪いのは相手でも、死ぬのは自分だ。どっちが正しいとか間違ってるとかは、後からの話だ。死んでからピーピーわめいて、権利や補償を主張したってしょうがないんだよ。まずは強くなければ」

「うん…僕もそう思う」

「わかりやすい暴力の話だけじゃないぞ」

「えっ、どういうこと?」

「詐欺に騙される、みたいな話もそうだ。犯人が捕まって、訴えることができたとしたって、得なんかない。損失のうちのチョコッと返ってくるくらいのもんだ」

「騙す方が悪いと言ったところで、痛い思いをするのは騙される方よね」

「交通事故や火事でもそうだぞ。保険でお金は補償されるかもしれないが、怪我をしたり、大切なものが失われたら、元に戻らない」

「そうかあ…」

「もっといえば、食品や薬のような、社会的に信頼されているものだって、わからんぞ。得体のしれないワクチンをバンバン体に入れて、とんでもないことになったって、補償なんて期待できない。そういうのは、社会問題になって、集団訴訟になって、そこらじゅうでプラカードを掲げてデモ行進が行われたりするが、元には戻らない」

「怖いわねえ」

「無知は弱さだ。だから勉強も必要なんだ」

「べ、勉強するよ…」

「学校の勉強だけじゃだめだぞ。広く世の中のことを知らないとな。といって、新聞やテレビも、嘘や煽りが多い。本当のことは、隠されている。それを知ることがインテリジェンスだ」

「インテリ…?」

「ま、まだそこまでわからなくてもいいけど、なんでもかんでも鵜呑みにしちゃいけないってことだ。教科書に書いてあることであってもだ」

「えーっ、何を信じたらいいの?」

「そんな話もある。こんなことを言う人もいる。昔からそのように言われてきた…。そういうことは知っておくのは大切だ。テストに出るからな。だけど、本当は間違っているかもしれないと、心の片隅ででも、思っておくことだ。物事、なんにでも表と裏がある。正しいか間違いかなんて、時の移ろいとともに変わる。絶対ってことはない。難しいかもしれないけどな…」

「なんとなく、わかったよ」

「それでいい。でも、学校の先生には、あまり突っ込まない方がいいぞ。内申書に響く」

「うん、思うだけにする。じゃあ、行ってきまーす」

そう言って、太児が学校に出かけた。

コメント