この物語はすべてフィクションです。
第四十一話 罪や恐怖、経済と徳のこと
2杯目のコーヒーを飲みながら、ヒロが語る。
「太児が行った昔の世界では、盗賊を殺してもお咎めなしだろう。俺の現実世界では、俺は逮捕され、牢屋に入れられた。社会も法律も全然違うんだな。正しいとか間違っているとか、善とか悪とか、状況や環境で変わるものだよ。そんな中でも、変わらない信念を持つんだ」
ヒロが太児に言った。
「俺には信念なんかなかった。あの鉄格子の中で、ずっと後悔してた。でも、死んだら後悔もできない。俺に殴られた奴は、意識朦朧の中で後悔したかもしれないが」
ヒロは、空を見上げて続けた。
「庵天はさ…何度も面会に来てくれたよ」
「友達だからな」
「シャバに出ても、世間の目は冷たかったが、武術をもう一度学び直そうと思った。庵天のおかげだ」
ヒロは、小さく息を吐きながら続けた。
「…あの抗争のあと、武器ってものが、どうしようもなく怖くなったんだ。刃物も、鉄の棒も…誰かを傷つける感触が、手に残ってる気がした…」
ヒロは、わざとらしく笑った。
「気づいたら…俺、変な趣味に走ってた。アルミ板で作った、使い物にならない短剣とか、竹でできた仕込み杖とか、おもちゃみたいな暗器ばっかり集めだしたんだ。観光地の土産物のほうがマシだな。自分でもずいぶん作ってみた」
ヒロは、指先で自分のマグカップを軽く弾いた。
マグカップの把手の上部が外れ、ぷしゅーッと蒸気が噴き出す。
「これは、コーヒーを飲んでリラックスしていると思わせて、目くらましをする武器だ」
重苦しかった空気が和らいだ。
「そんな使えない武器コレクターになって、ようやく気づいたんだよ」
ヒロは肩をすくめて笑った。
「俺は武器が怖いけど、武器に負けたくなかったんだなってな」
太児は、思い出していた。刃の重さ。刀と刀が当たった時の感触。肉を斬った手応え。
「太児」
ヒロが柔らかく言った。
「お前が怖がってるのは、斬った相手でも、武器でもなくて、自分が乱暴な人間なんじゃないかって不安だろ?」
太児はぎゅっと拳を握った。
図星だった。
庵天先生が言った。
「太児。怖さを知っている者ほど、力の使い方を間違えない」
ヒロが少しだけ声を低くする。
「俺は、あの頃の自分に言ってやりたいよ。怖がっていいってな。強がるよりよっぽど大人だって」
太児は、顔を上げて言った。
「…ぼくは…強くなりたい…」
庵天先生は頷いた。
「それでいい。強がりじゃない、怖さ弱さを知って、本当に強くなれる」
しばらくの沈黙の後、ヒロが口を開いた。
「俺はそれから、介護や福祉の仕事をしながら、自分ちを道場にして、子供向けに、遊びみたいな武術を教え始めた。殺伐とした雰囲気じゃなくて、楽しい武術にしたかった。忍者みたいな武器も、子供たちに喜んでもらいたくて思いついたんだ。そんなんでも、練習していれば、いざという時は護身のための体の使い方が養われる」
「子供に教えているんですか?」
「あんがい人気なんだぜ。高校生になっても続ける子は、あんまりいないけどな。武術を続けたい子には、俺が通っていた空手道場を紹介してる。俺も空手はずっと続けている」
ヒロが庵天先生をチラッと見て言った。
「庵天はより本格的な修行をするために、中国に渡った」
「お前ももう大丈夫だと思ったしな。10年、陳家溝にいた」
「帰国するたびに俺を訪ねてくれたよ。年に一度は帰ってきてたか?」
「向こうで金が尽きたら、帰ってきて、一月ほどアルバイトして、また一年分の資金を作って、またあっち、っていったり来たりしていたんだ」
「えっ、そんなので海外で暮らせるの?」
「師匠の家に住み込みで、生活にさほど金も要らなかったし、当時の日本と中国では物価が全然違っていたんだ」
「世界で一番の金持ち国だったんだよ。日本は」
「えええーっ!」
「戦争で負けて、世界最貧国に落ちぶれた日本だったが、40年かそこらで経済大国に返り咲いた。だけど、ここ30年で経済も軍事力も中国の方が強くなってしまった。俺は中国で修行させてもらったが、日本には強く豊かであってほしいと思うよ」
「韓国人には反日感情を持つ者もいるが、俺はやっぱり日本が強く豊かであってほしいなあ。でないと、おもちゃの武器で遊んでいられない」
「余裕がなくなると、殺伐となるからな。豊かでないと、徳も育まれにくい」
「太児も、武術ばっかりじゃなくて、社会で稼げるように、ちゃんと勉強もするんだぞ。俺が言うのもなんだけど、武術じゃ食っていけないからな。武術を極めるにも、生活に余裕があってこそだ」
「まあ、金儲けできるかどうかはともかく、武術バカじゃなくて、どこでも通用して重用される人間になれってことだな」
「はい、わかりました…」

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