青春小説「太児」第6話

この物語はすべてフィクションです。剣道をされている人には、突っ込みどころだらけかと思いますが、ご容赦ください。

第六話 庵天先生と太極剣と剣道のこと

キャンプから帰ってきた翌日。

いつものように朝ごはんを食べ、学校に向かう道、太児は、何かが違っていることを感じていた。

…歩き方。景色の見え方。空気の肌触り…

道ばたの雑草が風に揺れるのを見て、「……太極拳に似てる」と思った。

「ふふ……」

なんだか、嬉しくなる。胸の奥が軽くなっているのを感じていた。

夕方の公園の片隅で、太児はひとり、楊露禅の型を思い出しながら練習していた。

手足を動かす。呼吸に合わせて、重心をゆっくり移す。

すると、木の陰からぬっと現れる影。

「おっ、いいね〜。太極拳ぽいじゃないか」

庵天さんだった。

「あれ! なんでここに……」

「そこの釣具屋がいきつけなんだよ。あそこ、ルアーの品揃えいいんだよな」

そんなことを言いながら、庵天さんが手本を見せる。

手を広げ、左足を静かに踏み出す。

まるで海底で海藻が揺らめいているような、滑らかで軽やかな動き。

太児は、真似した。

「ちがうなあ、踏ん張るんじゃなくて沈むんだ。力は出すんじゃない、流し込む」

「……沈む……流す……」

「太極拳をやりたいか?」

「うん。面白そう」

「そうか。こっちには時々寄るから、会った時は、また教えてやろう」

その日から、太児の稽古が始まった。

なんとなく、思い出しながら、動いているだけだったが…。

毎日、登校前と夕方に公園による習慣になった。

 

ある日、庵天先生が、木刀を二本持ってきた。

「太児、剣道やってるんだよな?」

「う、うん……ぜんぜん勝てないけど」

「太極拳は刀も剣も使う。ちょっと、構えてみな」

太児は木刀を構えた。いつも通りの中段の構え。

庵天先生はそれを見て、にっこりと笑った。

「剣道の試合は、先手必勝で攻めて勝つ思想だ。太極剣は受けて返す」

「受けて、返す……」

「竹刀は打つ剣。太極剣は導く剣。まあ、いつも通りに打ってきな。当たんないから、思い切ってやっていいよ」

太一は木刀を振りかぶり、飛び込んで庵天先生の頭に打ち込んだ。先生は、木刀に木刀を吸いつけるように合わせ、太児の力をそのまま流して、背後へ回り込み、木刀の刃を、太児の首にそっと当てた。

「ガチガチとぶつけるんじゃない。相手の力に逆らわず、むしろ一緒に動く。これが太極の考え方さ」

太児は、目を見開いた。

「ま、試合向きじゃないがな。でも、これを知っておくと、剣が違った風に見える」

庵天先生がニコッと笑った。

 

その週末。

剣道教室で練習試合があった。

どうせまた負けっぱなしだ、と思っていたが…

「時間切れ、引き分け」

審判が旗を頭の上で交差させた。

相手選手は、ゼーゼーハーハー言っている。2分間、飛び跳ね続けると、たいていそうなる。

ところが、いつもならへたり込んでいる太児が、静かに立っている。息も上がっていない。

それに、小手も面も胴も、一発も当てられていない。むしろ、太児の方が多く当てている。

太児のは、一本も有効にならなかった。剣道では、充実した気合で、大きな音が響くような打突をもって有効とされる。太児の竹刀は、スルスル当たるばかりで、さっぱり音がならないから、有効にならなかったのだ。

「太児、もっと積極的に攻めろ」と審判の先生に注意を受ける。

しかし太児は、負けなかったことに驚いていた。

相手が打ってくるのが分かった。無理に打ちにいかず、自然と相手の攻撃をいなすように受け流し、スッと返せば、小手や胴に入っていた。

次の相手は、太児が一番苦手としている藤吉だ。いつも強烈な体当たりをぶつけてきて、吹き飛ばされる。

「用意。始め」

審判の旗が振り下ろされるや否や、藤吉は猛烈な勢いで、踏み込んできた。竹刀を持った両拳を激しくぶつけてくる。

いつもなら衝撃を受けて、そのまま後ろに突き倒されるところだが、太児は左足をすっと右後ろに引いた。受けた拳の感覚はあるが、衝撃はない。ふんわりとスポンジで受けているようだ。

手応えを失った藤吉は、その勢いを弱めることができなかった。体勢の崩れた藤吉を、太児がちょんと竹刀の柄で押すと、藤吉は、投げそこなったコマのように斜めに回転して、ひっくり返り、コートの枠の外まで飛び出していった。

「場外!」

審判が旗を上げた。だが、一本にはならない。

再びコート中央で、竹刀の先を合わせて立つ。

「始め!」

藤吉は、今度は闇雲に飛び込んでこない。じりじりと摺り足で寄ってくる。

藤吉の竹刀が、太児の竹刀の上を滑るように進み、フワッと浮いた。振りかぶらずに、直線状に打ってきたのだ。頭の上まで来た時に、手首のスナップで面を叩けば、いい音が鳴る。

「メーン!」

だが、藤吉の竹刀は太児の面には当たっていなかった。浮き上がる藤吉の竹刀を、太児の竹刀がすり上げていた。

ドン!

またしても鍔ぜり合いの体勢だ。二人の拳同士が押し合う形になっている。

藤吉は脚を踏ん張り、腕を突っ張り、太児を押しのけようとした。距離が空いたところで、飛び退きながら面を打つつもりだ。

だが、藤吉は竹刀を振りかぶることができず、そのまま真後ろに飛んだ。仰向けにひっくり返り、ごろごろ転がり、コート脇に正座して待機していた部員の列に突っ込んだ。

「場外!」

場外二回で、太児の一本となる。

実質的には、まだ一本も取ってないが、カウント上は一本だ。太児にとって、はじめての得点。

試合は二本先に取った方が勝ちになる。

「せめて一本はちゃんと取りたい!」

太児に勝負に対する欲が出た。

「構えて。始め!」

藤吉はフラフラだ。今ならいける。

大きく竹刀を振りかぶり、剣道の基本通り、左足で床を蹴り、真正面から面を打ち込んだ。

が、太児の竹刀は、藤吉に跳ね上げられた。そして返す刀で胴を薙ぎ払われた。

パーン!と、いい音が、道場に鳴り響いた。

「一本!」

審判の旗が上がった。

結局この日も、太児は勝つことができなかった。

 

稽古が終わり、防具袋を肩に担いで道場を出たところで、藤吉に声を掛けられた。

「太児、今日はなんだか、いつもと違ってたじゃねえか。なんで俺が吹き飛ばされたのか、さっぱりわからねえ。何をしたんだ?」

「たまたまだよ…」

「たまたまで、二回もオレが転がされるかよ。何か違うことを習ったのか?」

「…太極拳だよ」

太児は小さな声で、つぶやいた。

「太極拳って、あの公園でやってる年寄りの体操か? そんなもんで俺を吹っ飛ばしたのか?」

「太極拳は、相手の力を借りるんだけど…。本当にできるとは思わなかった。藤吉は力が強いから、思った以上に飛んで行ったのかもしれない」

「なんかよくわからんが、すげーな」

「剣道じゃ勝てないし…。藤吉の最後の胴は、やっぱりすごかったよ。全然かなわないと思った」

「いや、太児、試合じゃ俺の勝ちだったけど、あれが本物の戦場での斬り合いだったら、死んでたのは俺の方だったかもしれないぞ。俺は本当は、そんな剣道をしたいんだ。昔の剣豪みたいになりたいんだよ。父ちゃんが警察でやってるのはそんなんだしな。お前、すげーよ!」

藤吉がそんなことを言ってくれるとは、予想もしていなかった。

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