この物語はすべてフィクションです。
第五十六話 雪の中で套路のこと
「あまり遅くなると、お母さんに心配をかけるからな。そろそろ帰るか? お土産は猪肉だ。自分で解体したと自慢したらいい」
「ええ~。ビックリするかも」
そういって、肉の詰まったジップロックをリュックサックに入れる。
「…お母さんには、お父さんのことは話さない方がいいのかなあ」
「お父さんが話してないのなら、話さない方がいいだろう。帰ってくるまで知らんふりしておこう。心苦しいかもしれないけどな…。少しの我慢だ」
アパートの玄関を開けると、雪が積もっていた。
「雪だな。車で送ってやるよ。その前に、一度、そこで套路を通してみろ。一緒にやろう」
「ええ? 雪の上で? 滑らない?」
「そもそも太極拳は、足元の悪い環境で発達したんだ。ヌカルミとか草むらとかな。昔の名人は、雪の上で足跡をつけずに套路をやったらしいぞ。しらんけど」
玄関前の雪の積もった駐車場で、二人並んで套路を打つ。
太児の足元はツルツル滑るが、庵天先生はピタッと雪に吸い付いているようだ。
ゆっくりの動きだが、雪の中でも体が温まってくる。
庵天先生は、教えられるところまでは教えたと言っていたが、まだ套路の順番もアヤフヤで、ちゃんとできている自信はない。
色々不安もよぎる。
およそ15分。套路を通した。頭からホカホカと、湯気が上がっている。
「よし。体が冷えないうちに送ろう」
庵天先生の運転する、おんぼろのバンの助手席に乗り、太児の家に向かう。車だとすぐだ。
「お母さんや、拳二たちにもよろしくな。ま、二週間かそこらで戻るだろう」
庵天先生は、車の窓から手を振って帰っていった。
太児は、玄関の前で、去っていく車に向かって、包拳礼をした。

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