この物語はすべてフィクションです。
第十三話 愛と力のこと
「さてお前たち。宿題はやっていたかな?」
前回の庵天先生による集中講座では、「懶扎衣」と「単鞭」を教わった。これを組み合わせた「雲手」は、太児が二人に伝えている。
三人がやって見せた。
「うんうん。まあ、良しとしよう。今日は反対回しをやってみよう」
庵天先生が、雲手を反対方向にやって見せた。左右の手が、交互に顔の前を払いのける動作だ。目の前の相手にビンタをするようなも見える。もう一方の手は、膝の前を払う。
「お前たち、親や先生からビンタされたことはあるか?」
「ぼくは、ない」と太児。
「私もないわ」と美鈴。
「オレはある。幼稚園の時に、女子のスカートをめくったら、ビンタされた」と拳児。
「アホね」
「お前だよ! ビンタをかましたのは!」
「あら、忘れてたわ。女の子のビンタもよけられなかったのね。お粗末な話」
「だから拳法を習い始めたんだよ!」
庵天先生が「はあ」と、ため息をついた。
「美鈴ちゃんのビンタはいいとして…」
「えっ、いいの!?」と拳児と、太児。
「きょうびは、親も教師も体罰をしない。俺は、これは良くない風潮だと思っている」
「えっ、なんで!?」と驚く3人。
「愛のない体罰は暴力だが、ときには激しい身体接触でなければ、伝わらないこともある。なんでもかんでも一緒くたにして、やめとこうっていうのは、親や先生が、自分の責任を放棄して、逃げてるんだ。訴えられたり、捕まったりするのは怖いからな。だけど、子育てに責任を持たなくなったら、教育は終わりだ。わかるかい?」
「えー、でも、叩かれるのはいやだな…」
庵天先生が笑いながらうなずいた。
「お前たちくらいの年になれば、言葉で伝わることも増えているだろうが、もっと小さい子供には、時にはバッチーンとやることも必要だ。ただ、児童虐待と紙一重なところもある。子供への愛からなのか、親の都合や気分で叩いているのかで、教育か暴力かにわかれるな」
「先生は、暴力は絶対ダメ、っていってたよ」と太児。
「愛のない力は暴力だけど、力のない愛は無力だって、少林寺拳法で習ったよ。暴力はダメっていっても、襲ってくる奴に対抗できるのは、愛じゃなくて力だもんな」と拳二。
「太極拳だって、平和そうに見えても戦いの技術だ。いざという時に使えないようじゃ、武術じゃない。だけど、強さをひけらかして乱暴になるのも武術じゃないんだ」
庵天先生が噛みしめるように言った。
太児は、強さがなんなのか、わからなくなってきた。
美鈴が聞いた。
「先生は、自分の子を叩くの?」
「俺に子供はいないよ。生徒も大人ばかりだったから、躾のために叩くなんてことはなかった。練習ではバンバン打つけどね。ただ、俺が子供の頃には良く叩かれたなあ。親にも先生にもしょっちゅうだった。昭和の教育はそんなもんだ。当時は腹も立ったが、今じゃ感謝してるよ」
自分は親から叩かれたことがないから、強くなれなかったのかな?
…それも違う気がする。
「ところで、この動きって、敵をビンタでやっつけてるの? ビンタは得意よ」
「まあ、ビンタもできるが…。前にも言ったと思うが、太極拳の動作は、なにか一つの攻防を想定して作られているんじゃない。反復練習で、体に浸み込ませて、どういった状況になっても、とっさに、いちばんいいように自動で動けるように、体と脳味噌の回路を作る訓練だ」
「でもなあ…。ぜんぜん、戦える気がしないんだよなあ。蹴ったり突いたりする練習をした方が、手っ取り早いと思っちゃう」
「拳二は、そういう武術をやってるから頭の切り替えが難しいかもしれないな。太極拳は、すべてを含んでいる。そのうちわかる」
庵天先生の、ビンタの動きの見本は、どんどん腰を落として低い姿勢になっていく。ついには、肩と膝がくっつくくらいの低さになった。
「ちょっときついだろうが、若いお前たちならできるだろう。前にやった雲手と、この撇身捶(へいしんすい)を、毎日64回づつ、あわせて128回やるんだ。
「えーっ!」と3人。
「オレは拳法の練習もやってるからなあ。疲れてるし、そんなにできないかも」と拳二が言った。
「そうだな。両方かけもちは大変だ。でも、やるんだ」と庵天先生。
「私は、この前、バスケで足をぶつけて痛いから、そんなにできないわ」
「そうか、痛いのは辛いな。でも、できる。俺の言うとおりにやれば問題ない」
「ぼくは、やるよ。強くなりたい」
「そうか、ガッツがあるのはいいことだ。でも、練習の時に、あまり強さを求めるな。チンタラやっていればいい。生活習慣になれば一番いいんだ」
この日は、動作の途中途中で止められ、正しい形に何度も直された。変な形でやっても意味がない。無理に低くしなくてもいい。
128回は連続でなくてもいいし、数が足りなくてもいい。
ただただ、毎日チンタラ続けること。これが宿題となった。

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