サバイバル小説「太児」第五十四話

この物語はすべてフィクションです。

第五十四話 故宮博物館と信の珠のこと

「ところであなた、台湾には観光旅行に来たの?」

輪の中の年配の女性が、太児ににこやかに話しかけてきた。

「え、ええ。まあ…」

「台湾に来たのなら、故宮博物館には絶対に行かなくちゃ。もう行った?」

「え、まだです…」

「じゃあ、ぜひご家族と行ってね!」

「あ、は、はい…。ところで、故宮博物館って?」

太児の問いに、おばさんの一人が身を乗り出し、目を輝かせながら語り出した。

「大陸の歴代皇帝たちが集めた宝物が、何千点も展示されているのよ。北京にも同じ名前の博物館があるけれど、台湾の方がすごいって言われてるの。一日じゃ回りきれないわ」

「そうそう! 特に翠玉白菜っていう翡翠でできた白菜の彫刻は絶対に見なきゃダメよ。小さいのに、葉っぱのひとひらひとひらが本物みたいに繊細なの。キリギリスがちょこんと止まってるのまで、ちゃんと彫ってあるのよ」

「へえ…白菜が彫刻に?」

「そうよ。白菜はね、清廉潔白の象徴とされていて、お嫁入りのときの縁起物なの」

もう一人が楽しげに付け加えた。

「それにね、肉形石っていう、豚の角煮そっくりの石もあるの。お腹がすいちゃうくらいリアルでね、まるで本物の煮込み肉みたいなのよ」

「行くなら朝早くがいいわよ。最近は外国人観光客も多くて、混むのよ〜」

太児は、おばさんたちの熱意に圧倒されて、思わずうなずいた。

「なるほど……行ってみます。ありがとうございます」

「それでいいのよ〜。観光に来たなら、文化にも触れなくちゃね!」

少し考え込んだ太児が、ふと首をかしげて尋ねた。

「でも…どうして、大陸の宝物が、台湾にたくさんあるんですか?」

途端に、おばさんたちの表情が少し真剣なものに変わった。一人が静かに口を開く。

「それはね…さっき、杜毓澤先生もおっしゃっていたように、国民党と共産党の争いがあったの」

別のおばさんが続けた。

「1949年、共産党が中国本土を支配するようになったとき、国民党は台湾に逃れてきたの。そのとき、北京の故宮博物院から、たくさんの文化財を命がけで運び出したのよ。ただの移送じゃなくて、保護だったの。泥棒じゃないのよ」

「へえ…そんな歴史が…」

「そう、あの時代、多くの人が文化財と一緒に台湾に渡ってきたのよ」

杜毓澤がゆっくりと口を開いた。

「あの頃の革命ゲリラどもに、古い伝統や文化を敬う気持ちなんかなかった。ぶっ壊すことと、ぶっ殺すことしか知らん奴らじゃった。だから、北京から文物を守るため、ひそかに移送したんじゃ。3年かけてな」

彼は声を少しひそめた。

「太児君が興味を持ちそうな話でいえばな…太極拳にまつわる宝も、武術家達と一緒に避難してきたのじゃ。陳家溝に伝わる七つの珠のうちの一つ、信の珠。それを、ワシが預かった。軍属のエリートじゃったゆえ、信頼されたのじゃろう」

「七つの珠…?」

「そうじゃ。七珠はそれぞれ、仁・義・礼・智・信・厳・勇の徳を象徴しとる。陳王廷の木剣から削り出したと言われる珠じゃ。それが代々、陳家溝の守り神のように伝えられておった」

杜毓澤は、懐かしむような表情で続けた。

「ワシが預かった信の珠は、人と人とのつながり、信頼、誠実さを象徴しとる珠じゃった。だが、共産主義者にとっては、そんなのは迷信、見つかれば燃やされるにきまっとる。だから七つの珠は、それぞれ別々の者に預けられた。リスク分散じゃな。ワシが信を受け持ったのは、偶然か、あるいは何かの縁かもしれん」

「その信の珠も、故宮博物館に?」

「そうじゃ。非公開の保管庫にある。展示するような美術品ではないからの。だが、その珠は、ただの宝ではない。ワシら軍人達の命を救った、特別なものじゃ」

杜毓澤は一拍おいて、静かに語り始めた。

「四川の雪山を越える過酷な道中、吹雪に閉ざされ、前にも後にも進めぬ中、日が暮れた。絶望的な状況じゃ」

太児はゴクリとつばを飲み込む。

「台湾生まれの淑女諸君には、雪山はなじみがないかのう?」

「あら、冬の玉山に登ったことがあるわよ」

「私もツアーで登ったわよ。日本の富士山より高いのよ~」

太児も富士山には登ったことがあるが、夏だった。

「観光で行く分には安全に配慮もあろうが、その時は隠密行動だったのじゃ。真っ暗けで身動きも取れん。暖房もない。死を覚悟したが、しかし、宝物と珠はなんとしても守らねばならん。千年もの歴史を守る使命じゃ。期待と信頼を裏切るわけにはいかん。死んでもミッションを遂行せねば」

太児もおばさん達もゴクリとつばを飲み込む。

「その時、珠が緑色に光り出したのじゃ」

太児は目を見開いた。

「…光る?」

「そう。周りを照らすほどではないが、希望の光に見えた。なぜか、助かるっちゅう確信が湧いて、光に導かれるように進んだ。そして、山中の古い廟にたどり着いたのじゃ。そこで吹雪が治まるまで生き延びることができた。信の珠は、信じる力を呼び覚ます宝なのかもしれん」

太児は、胸が熱くなった。

「陳家溝には、7つの珠が揃ったとき、腐敗した政権や歴史は亡び、新しい世界が始まるとの伝説があった。二つの国だか一つの国だか、よくわからん今の状況も、永遠に続くはずもない。10年後か、あるいは100年後かわからんが、その時、珠の不思議な力が働くかもしれぬ。ま、ワシが見届けることあるまいがの。太児君くらいの若者達を信じて、託すとするわい…」

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