この物語はすべてフィクションです。
第三十話 庵天先生の貧乏生活と太極拳の蹴りのこと
「太児のパパと、庵天先生は知り合いだったの?」と美鈴が聞く。
「若い時にお世話になったって言ってた」と太児は答えるものの、なんとなく納得いかない。
「じゃあ、太児のパパも太極拳を習ったんじゃないか?」と拳二。
「ううん。お父さんは剣道部で、太極拳はあまり知らないように言ってたけどなあ」と答えつつ、そうかもしれないと思う。
「なんか、秘密があるんとちゃうか?」と晶。目をキラキラさせている。
「ところで、晶ちゃんのパパは、今日は来ないの?」と美鈴。
「仕事が見つかったんやて。神社の祭りのテキ屋や。こっちで仲良くなったおっちゃんの店を手伝うらしいわ。喧嘩せえへんかったらええけどな」
「晶ちゃんは行かなくていいの?」と不安そうに太児が聞く。
「テツが頼んできたら、手伝ってやらんこともないけどな。まあ自分で何とかするやろ」
日曜日、湖畔のキャンプ場にきている。
連休なので、テントを張って合宿だ。
盛り上がっているところに、庵天先生がやってきた。
「やあ、おはよう。今日はテツさんは休みか」
「祭りやから、神社でテキ屋やってるわ」
「ははは。似合ってるな。練習の後からでも、いってみようか」
「やったー! 俺、射的やりたい」「金魚すくい!」「型抜き!」「ウナギ釣り!」
みんな口々にやりたいものを言う。
聞きながら、庵天先生が笑った。
「いいねえ。技術を要するものばかりだ。くじ引きだとか、スマートボールより、センスがある。だけど、金は出さんぞ」
「そうか…先生にとっては大金だよね…」
「そうかあ、無職だもんね」
「お祭りなんかに使ったら、食べるのに困っちゃうよね…」
「いや、そこまででもないが…」
「月謝も払ってないのに、たかるのは良くないよな」
「ほんとよね。タダで教えてもらってるんだから、お祭りくらいご招待すべきよね」
「ヤキソバとか、おでんとか、お腹の足しになるところがいいよね」
「そういう話でもないんだが…」
「そうだよ。お金はお小遣いから出そうよ」
「お小遣いなんてもらってないけど」
「自分の親にせびろうね」
「うちは、テツが儲けてる分から出させるわ。うちが面倒見たってるんやから、当然や」
「…」
庵天先生が威厳を取り戻そうと、張り切った声を上げた。
「さて、気を取り直して練習を始めよう。前回のところで、なにかわからないことはなかったか?」
拳二が手を上げた。
「太極拳に蹴りはないの?」
「前回のところって言ったろ…。まあいい、蹴りについて今日は教えてやろう」
「蹴りも一応あるんだね」
「一応じゃない。太極拳の蹴りは、実に多彩だ」
「少林寺拳法より? 前蹴り、横蹴り、回し蹴り、飛び蹴り、後ろ回し蹴り、ローリングソバットとか、いっぱいあるよ」
「後ろの方は少林寺拳法のじゃないだろう…」
庵天先生が、拳二と向かい合い、右手を差し出した。拳二も右手を上げ、手の甲同士を合わせる。搭手の形だ。
右足を前に出して立っている拳二に向かって、庵天先生は左足を出した。拳二の足に被せるように交差させ、太腿(ふともも)同士が触れ合っている。
「この近い間合いが太極拳の間合いだ。ここから蹴りを出してみな」
拳二は右足を出そうとするが、庵天先生の足に封じられているので、上げられない。後ろの左足で蹴ろうとするが、上げようとするとバランスを変えられ、動かすことができない。
思い切って体重を後ろに下げ、前足で蹴り上げようとした途端、庵天先生の膝が向きを変え、拳二はバランスを失った。拳二の右足の太ももを、庵天先生の左足が掬い上げる形になっている。
「おっとっと…」
バランスを失い、よろよろしている拳二の軸足を、庵天先生が軽く足で押し込んだ。
拳二はボテッと尻もちだ。
「これが太極拳の足技だ」
「何かよくわからなかったよ」
「動きが小さくて地味」
「そんなの套路の型にあったっけ?」
庵天先生が説明をする。
「太極拳の歩く動作と、蹴る動作は同じだと考えるといい。套路では、大きく動かして練習するが、実際に使う時は、相手の目に触れないところでコンパクトに足を使う。歩いている足が、たまたま当たったり引っかかったり、ってかんじだな。套路の形と見た感じは違ってくるが、やってる感覚は同じだ」
「あまりカッコよくないな…」と拳二。
「見栄えより実用性だ」と庵天先生。
「花より団子っちゅうことやな」と晶。
「反則技じゃない?」と美鈴。
太児は、いつか見に行った武術大会を思い出した。東山先生が言っていた花火拳ではない、本物の武術とは、こういうもんなんだ…。
庵天先生が、太極拳の蹴りを一通りやって見せた。
「これが蹬脚。歩くのと同じだろ。高くも低くも使える。擦脚は、擦り上げるように使える。外側に開くのが擺脚(はいきゃく)。高く振り上げても、地面を引っ掻くようにしても、擺脚だ。内側に巻き込むのは扣脚(こうきゃく)。相手の足を巻き込んで倒したりできる。里合腿や旋風脚といった名前がついている。伏せるようにして、地面スレスレにやるのは、ジャッキーチェンの映画でおなじみの掃腿だ」
「回し蹴りはないんだね」
「体を倒し込むような蹴りは使わない。至近距離で、抱き合うような間合いだからな。傾いたら投げられてしまう。太極拳はいつもまっすぐ立つんだ」
「位牌のように、だね」
「そうだ。よく知っているな」
位牌大王とよばれた陳長興老師の話を、太児は思い出した。
「二人一組になって、色々試してみな。感覚を知ることが大事だ」
キャッキャと笑いながら、足を掛け合う晶と美鈴。
力が入ってズッコケる拳二、空振りしてあらぬ方向を見る太児。
楽しい時間が過ぎていった。

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