小説「太児」第七十二話

この物語はすべてフィクションです。

第七十二話 春子、太児の母と語らいて 侠眼の妻の強きを知ること

父が出張に出かけたのは、太児が小学5年生の時だった。

冬に庵天先生も旅に出た。

太児が中学生になった春の午後。

太児の母が、台所で湯を沸かしていると、玄関の呼び鈴が鳴った。

「こんにちは」

入ってきたのは庵天先生の妻、春子だった。

太児の母は微笑む。

「春子さん、いらっしゃい。お茶、今いれるところよ」

彼女は時々こうして訪ねてきた。

特に用事があるわけではない。

夫が留守のもの同士、お茶飲み友達だ。

二人は縁側に座った。

庭の梅が散り始めていた。

しばらく世間話が続いたあと、母がぽつりと言った。

「……不思議なの」

「何が?」

「毎月、お給料は振り込まれてるんだけど…」

春子は黙って聞いている。

「振込日が、変わってたのよね」

母は苦笑した。

「変よね」

しばらく沈黙が続いた。

「庵天さんも、でかけたっきりなのね」

風が庭の木を揺らす。

「中国よ。夫は昔中国で暮らしていたから、あっちに仕事のつながりが多いのよ」

「うちの人たら、なんにも詳しいことを教えてくれないわ」

母はしばらく考えていた。

そして小さく笑う。

「…普通の会社員じゃないって、思ってたわ」

「どうして?」

遠くを見るような目。

「夜中に電話が来たり」

「急に何日も帰らなかったり」

「体に傷があったり」

母は続ける。

「でもね…聞かなかったの」

春子が聞く。

「どうして?」

母は静かに答える。

「聞くのが怖かったし…言えない仕事なんだなあって思ったから」

柔らかい風が庭を吹き抜けた。

「でもね…信じてるの」

母は少し笑った。

「悪いことをする人じゃないわ」

母は続ける。

「信念を持つ人なの」

母は湯のみを両手で包み、しばらく黙っていた。

「生きてるのかしら」

その声は小さかった。

春子はただ静かに言う。

「もちろん、帰ってくるわよ」

母はその言葉を聞き少しだけ目を閉じた。

「そうね…帰ってくるわね」

その夜。

春子はアパートで通信機を開いた。

短い報告を送る。

「侠眼の妻、おおむね異常なし」

送信先は連環。

そして彼女は小さくつぶやく。

「…侠眼」

「あなたの奥さんは強い人ね」

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