この物語はすべてフィクションです。福山雅治とは関係ありません。気の概念は、あまり悩まないでください。
第八話 雨だれと棍のこと
夕方、太児はピアノに向かった。
呼吸を整え、体を静かにして、気を沈め、鍵盤に触れる。
ショパンの「雨だれ」。
太児は、驚くほど指が軽やかに動くのを感じていた。静けさの中にある力。
「雨だれ」は、大地に降り注ぐ雫。柔らかく、優しく、響いた。
ぽつ、ぽつ、と静かに降り始めるような旋律が、夜の空気に溶ける。
胸ポケットの木玉が、微かに震えた。
太児は演奏を続ける。
左手が淡々とリズムを刻み、右手が淡い旋律を紡ぐ。
雨が強くなり、水しぶきが煙のように上がる。
太極拳の型の記憶が、重なる。
呼吸と指の動きが一致し、心が澄んでいく。
…胸ポケットの奥から、青白い光があふれ出した。
周囲の空気がひんやりと濡れ、ピアノの音が遠のく。
雨だれの旋律が、螺旋の渦を巻く。
「えっ……な、なに……?」
視界が歪み、足元の床が消えた。
重力が逆さまになって、太児は、柔らかな光に浮かび上がっていた。
…ざーっと、と雨の音が耳に届く。
目を開けると、見たことのある村の風景だった。
濡れた土の匂い、遠くでなく羊の声。
土壁の家々。
木玉は、淡い光をゆっくりと失っていく。
背後から、声を掛けられた。
「おう、また来たのか!」
楊露禅だった。
「あれっ、楊君、ということは…また昔の陳家溝村に来たんだな。来ようと思ったわけじゃないけど…」
「おう、せっかく来たんだし、おいらの棍の練習に付き合えよ! 狭い部屋だけど、濡れないで練習できるぜ」
楊露禅が、1メートル少々の棒を二本とりだして、一本を太児に放り出して渡した。
「こんな狭い部屋で棒を振り回したら、ぶつからない? ぼくはまだしゃがんだり、ドリブルしたり、立つ練習をしていてるだけなんだけどなあ。剣道は前からやってるけど」
「しゃがんだり立ったりするのに練習がいるのか?」
「この時代とは生活習慣が違うから、太極拳を学ぶためには、そこからやらないといけないって言われたよ」
「よくわからないなあ。立ったり座ったりしない生活を送ってるのか?」
「立たないわけじゃないけど、ちゃんと立つというか…」
「ふーむ。さっぱりわからんなあ。剣道って、剣術かい?」
「竹を割って作った刀で叩き合うんだ。こんな狭いところじゃ練習できないよ」
「狭い場所で使えなきゃ、役に立たないじゃないか」
「えっ、そうなの?」
「戦いは、広い野原でおこるもんじゃないぜ。路地裏や建物の中でも使えなきゃあ。それに、いくら広くったって、大人数での混戦で、闇雲に刀や槍を振り回したら、味方に当たっちまう」
「なるほど…実戦的だね」
「実戦的じゃない武術なんて、あんのか?」
「ぼくの住んでいる世界では、実戦なんてないからね。武道は精神修行と、健康のためだよ」
「それもいいけど、まずは戦えなきゃあね」
戦いの練習と聞いて、思い切りガツンガツンと打ち合いをするのかと思ったら、楊露禅の動きはのんびりしたものだった。
お互い、棍の両端を持ち、向かい合って、棍の真ん中あたりを合わせて、軽く押し合う。
太児がグイッと押し込もうとすると、楊露禅の棍はヌルリと向きを変えて、端が太児の手首を押さえた。太児が慌てて払いのけようとすると、もう反対側の端が、太児の脇の下に滑り込む。
太児は思わず仰け反ったところ、また反対側の端が、太児の膝を裏から引き寄せる。太児は膝を地面に押さえつけられ、身動きが取れなくなってしまった。
「ほら、こうやると全然場所を取らないだろう?」
「なんだか、不思議だ…。剣道みたいに打ち込んだらどうなるんだ?」
「やってみろよ」
太児が振りかぶって、楊露禅の面を打とうとした。太児は、楊露禅の棍にバシッと受け止められるか、ガツンと跳ね上げられるものと思っていたが、楊露禅は棍をもつ手を頭の高さに上げただけだ。
太児の棍は、斜めに垂らした楊露禅の棍に吸い付いた。
「あっ」と思ったときには、楊露禅の顔は、目の前だ。両方の手は棍で軽く封じられ、足は楊露禅の足でつっかえ棒にされて、もう動けない。
「ふふっ。太児は棍と拳を別物に考えているみたいだな。…おんなじなんだぜ。刀も剣も槍も、みんなおんなじだ」
「ええっ、どういうこと?」
フッと楊露禅が息を抜くと、太児はへにゃッと、床に転がされてしまった。
太児は、刀の持てない世の中で、剣道なんて役に立たないと思っていたが、それは違っていたのかな?とふと思った。
狭い部屋の中で、ゆるやかな対戦が、延々と続く。一方的に太児が転んだり、吊上げられたり、這いつくばったりだ。
太児は、目が回って、フラフラになってきた。
その時…
「…気を感じるのだ…」
ふいに、低いが、軽い声が響いた。
…陳王廷の声だ。太極拳の創始者と言われる伝説の人物。部屋の入口の外に、ぼうっと立っている。
「き??」
「見えぬものを感じるのよ」
陳王廷は、鍬を持っている。
「この世界は陰と陽でできている。」
陳王廷が鍬を振ると空気が渦を巻き、狭い部屋の中を洗濯機のように回り出した。
「太児。考えるな。感じるのだ」
その瞬間、体が自然に動いた。足を開き、掌を左右に分けて陰陽の渦を受け流した。
「……えっ?」
「無極から太極に…庵天の導きだな」
「えっ、庵天先生?」
太児のまわりの空気が重くなる。見えない糸が全身を纏い、体を操っている。心の奥に白い渦が巻く。
打つんじゃない。導くんだ。
棍が、風と重なる。大きな太極図を描いているようだった。
陳王廷は、静かに鍬を置いた。
「太極は力ではない。理でもない。問い続けることだ」
「問い……? ちょっと問いますけど、さっき庵天先生って言いました?」
「…気にするな。そのうちわかる」
そういって、陳王廷は消えた。
外に出ると、空に無数の星が瞬いていた。
楊露禅の姿はいつのまにか見えない。
「気って、なんだろう……。さっぱりわからない…。非論理的だ…」
「でも…実に面白い!」
View Comments (3)
第一話から、ちゃんと読み続けていますよ!
私も、読んでいて にやにや しております.
Uさん、ありがとうございます!
私も書きながら、ニヤニヤしております。
それにしても、チャットGPTって、実に面白い!
おー他にもニヤニヤ仲間がおられたんですね。(笑)