この物語はすべてフィクションです。
第七話 庵天先生の宿題のこと
次の日の夕方、公園で楊露禅がやっていた型を思い出しながら動いていると、庵天先生がやってきた。
「よう、試合どうだった?」
相手の動きが分かったこと、当たっても一本にならなかったこと、藤吉がすごい勢いで転がったこと、最後に胴を取られたことを、話した。
「ほう、やったなあ」
庵天先生は、嬉しそうに褒めてくれた。
「でも、相手が転がったのは、まぐれだな。まっすぐ突撃してくる現代剣道だからうまくかかったけど、本当の剣術なら斬られて死んでる。最後に胴を取られたのは、太児が剣道に付き合ったからだ」
「藤吉も、そんなことを言ってたような…。先生、武術って何なの?」
「武術は長生きする術だ。戦って生き残ることも、逃げて生き延びるのも、頭を使って戦わずして勝つのも、みんな武術だ。試合で勝ったり負けたりとは関係ない」
じっと黙って考えている太児に、庵天先生が尋ねた。
「…本物の武術をやりたいか?」
「よくわかんない。でも負けっぱなしはいやだな」
「そうだな。勝たなくてもいい。負けなければ生き延びられる。勇敢に突撃して死ぬのと、卑怯者といわれても生き延びるのとどちらがいい?」
「死ぬのも、卑怯者と呼ばれるのも嫌だよ」
太児の脳裏に、拳児が不良中学生どもに浴びせかけた「逃げるな、卑怯者!」の罵声が蘇った。
「武術は、生き延びる術だ。卑怯もくそも関係ない。死ぬことに美学を求めるのは、武士道だ。自分の命より大事なことに、命を懸けるんだ。どちらも難しい。ま、弱っちいやつにはどちらも無理だな」
「強くなりたいよ」
「そうか。じゃあ、まずは戦えるように肉体改造だな」
肉体改造という言葉に、ボディビルダーのような筋肉ムキムキのマッチョを想像したが、庵天先生の言う肉体改造は、全然違っていた。
「じゃあ、ちょっとしゃがんでみろ」
太児は蹲踞の姿勢を取った。
「お、さすが日本男児。蹲踞が決まってるね! じゃあ、踵を地面につけてしゃがめるかな」
踵を下ろすとたちまちフラフラする。庵天先生におでこをチョン突つかれて、太児は尻もちをついた。
「嘆かわしいなあ。それじゃあ、ウンコもできないぞ」
「うちも学校も洋式トイレだし、しゃがむことなんて、ないよ」
「それじゃあ、太極拳はできないんだなあ」
訝しむ太児に庵天先生が語った。
「太極拳は、そもそも、昔の支那の田舎の村で、百姓などの村人がやっていた武術だ。農耕作業のできる体でなきゃ、太極拳は難しい」
「村って、陳家溝のこと?」
「ん? そうだが、何で知ってる? 社会科で習ったか?」
軽い調子で聞いた庵天先生の目が、一瞬真剣になった。
「学校では習ってないと思うけど、陳家溝の陳さんと楊君に会ったよ」
「大丈夫か? 少年サンデーの古いマンガでも読んだのか?」
探るように、庵天先生が尋ねる。
「なんにせよ、現代日本の便利生活で腑抜けた体になっている今どきの子じゃ、本当の武術は無理ってことだ。関節が固まっていて、動くべき骨が動かせなくなっている。だから肉体改造をする」
「特訓するの??」
「特訓ってほどでもないが、毎日の生活習慣を変えていこう」
庵天先生からの宿題は、次のようなものだった。
トイレは和式を選ぶ。
家の廊下の雑巾がけ。
公園の草引き。
エレベーターを使わず、階段を二段飛ばしで上り下りする。
慣れたら階段は後ろ向きで上り下り。
信号待ちでは片足立ち。
などなど。
二週間後に、庵天先生のテストがあった。
「しゃがんでみな」
しゃがんでもフラフラしない。
「じゃあ、そのままキャッチボールをしよう」
庵天先生の持ってきたのは、バスケットボールだった。しゃがんだまま、パスの渡し合いをする。
「ボールが来たら、つかまず、弾かず、止めず、音もなく静かに投げ返すんだ」
庵天先生は、しゃがんだままでも、なんとか手の届く、絶妙な位置にボールを投げてくる。
「宿題はちゃんとやっていたようだな。よし。次の宿題は、今やったキャッチボールを誰かと2週間、毎日練習することだ。友達はいるか?」
「そんな暇な友達いないよ」
そこに美鈴が通りかかった。
「太児、バスケットボールでも始めるの?」
「おお、隣りの子だな。キャッチボールはできるかい?」
「バスケットボール部よ。朝飯前よ」
「じゃあ、毎日、朝飯前に太児に付き合ってやってくれ」
そんなわけで、太児と美鈴は毎日早起きして、キャッチボールをすることになった。
キャッチボールだけじゃつまらないとの美鈴の意見で、1on1の練習も加わった。うまいぐあいに公園にはバスケットゴールがある。
「ドリブルはもっと低く!どんくさいわねえ。足がもつれてるよ!」
庵天先生の宿題は、こんなキツイ特訓ではなかったはずだがなあ…と思いつつも、美鈴と過ごす朝の時間が楽しくなってきた太児だった。
2週間後、庵天先生がやってきた。美鈴も公園に来ている。
「どれ、やってみな」
キャッチボールを4,5回やったあと、美鈴が言った。
「先生、こんなこともできるようになったわよ。太児、シュートよ!」
太児はしゃがんだままドリブルを始め、立ち上がって走り出し、ゴール手前で跳び、ボールをそっとゴールに流し込んだ。
ボールは見事、ゴールの輪っかをすっぽりと通り抜けた。
「おおっ!すごいじゃないか! 次はそれを宿題にしようと思ってたんだ」
「えっ、シュートの練習?」
「ちがう。ドリブルだ。低い姿勢のまま、前後左右に歩き回る練習さ。相手との距離感もつかめるし、武術の練習にバスケットボールはちょうどいい。剣道は、前後の動きばっかりだからな」
では、新しい課題に進む、と庵天先生に宣言され、美鈴との練習は終わりかと、ちょっと寂しい気になったが、美鈴が言った。
「先生、一緒に朝飯前にやるから、私にも武術を教えてよ!」
「ふふ、いいだろう。一人でやるより上達が早い。ドリブルもひきつづき鍛えてやってくれ」
次の課題は、立っているだけの練習だった。
足を肩幅に広げ、手をみぞおちの高さに上げ、手のひらを自分の方に向け、中指同士を10センチほど離して、向かい合わせにする。親指は天に向ける。膝や股関節、肘、手首の関節を柔らかく、少し曲げる。頭のてっぺんが天からつるされているように、首を伸ばす。
遠くを見て、口は閉じて、鼻で息をして、後ろの音を聞く。ゆらゆら揺れてもいい。
「そのまま、何も話さないで15分。せっかく二人でやるんだから、向かい合わせになって、手の甲同士を合わせて、もたれ合ってもいいし、背中合わせになってもいい。恋人同士みたいで嬉しいだろ?」
太児が赤くなって言った。
「これ、何の意味があるの? 退屈なだけじゃない?」
美鈴が答えた。
「なに? 私と向かい合わせが退屈だっていうの!?」
庵天先生が言った。
「ドント・シンク! フィール!(D’ont think! Feel!)考えるな、感じるんだ!」
翌朝、拳二が公園に見に来た。変な宿題がでたと太児に聞き、興味を持ったのだ。
向かい合って手の甲を合わせていた太児と美鈴は、拳二がくると、パッと離れてしまった。
「なに、恥ずかしがってんだよー。宿題だろ!」
「べ、べ、べつに、本当は一人でやる練習だし!」
「なんだ? じゃあラブラブにさせるための課題なのか?」
「ちがうわよ。ちゃんと意味はあるのよ」
太児が庵天先生に聞いた話では、まっすぐ立ち続けることで、骨組みや内臓が整い、武術的な体の基礎を作れるとのことだった。站樁功(たんとうこう)というらしい。
二人でひっつくのは、お互いの力加減を感じて、自分の重心位置を加減できるようになる、かも。ということだった。
「そんな練習、少林寺拳法で聞いたことないぞ」
「中国武術の基本だって。考えるな! 感じろ!ってさ」
「ふーん、よくわかんないけど、俺も一緒にやってみよう」
拳二も二人のポーズを真似して、両手を上げて、立ってみる。
1分、2分、退屈だ。
「ところで、拳二は最近変な夢を見なかったかい?」
「変な夢?」
「昔の中国に行った、みたいな…」
「えっ、キャンプに行った日だ。ちびっ子に負けて悔しい夢を見た。太児もいたぞ」
「強くなりたいって言っただろ」
「…もしかして、同じ夢を見たのか?」
不思議だった。どうやら夢の中で、会っていたらしい。
「夢で見た武術を、本当に今、やってるんだな。でもよう、この、立ってる練習で強くなれるのか? ぜんぜんそんな気がしないけど」
「この後は、ドリブルの練習もするのよ。それも宿題」と美鈴。
「俺はそっちの方がいいや。じっとしてるのはつまんねえ。でも、ドリブルをして強くなれるとも思えないけどなあ」
「ドント、シンク! フィール!」
早朝の公園で少年少女がへんてこなことをやっていると、当然ながら、夜通し遊んでいた不良中学生たちに絡まれる。
「おい、何やってんだ。ジュース代置いてけよ」
いきなり太児が腕をつかまれた。
「もってないよ」
「そうか。じゃあ、二三発殴って勘弁してやる」
太児は、深く呼吸した。
手を掴んだ中学生が、バランスを崩してひっくり返った。
「……こいつら、なんか変だ。ほっとこうぜ」
彼らは去っていった。
拳二と美鈴がぽかんと見ていた。
「な、なにしたの、今の……」
太児もぽかんとしていた。
「なんだろうね…戦わずして勝つ…ってやつかな?」
View Comments (4)
面白い ^_^
密かに読んでニヤニヤしてます。
ありがとうございます!
登場人物に特定のモデルはおりません!
N先生に登場して欲しいです。
おやじ様、ありがとうございます。
もしかすると、今後、よく似たキャラクターが出てくるかもしれませんが、それは偶然の一致です。