この物語はすべてフィクションです。
第五十八話 太児の自主トレのこと
家に帰った太児は、制服を脱ぎ、いつもの練習着に着替えた。トレーナーと、ポケットのたくさんついているカーキ色の軍用パンツのレプリカが気に入っている。
ミリタリーオタクではないが、動きやすいし、普段着としても何かと便利だ。ストリートダンサーっぽく見えないこともない。
シューズは、中華街で見つけた、カンフーシューズ。ヒモもゴムもついていない、黒いペラペラのスリッパみたいな布靴だ。
やたら安かったし、カーンフーシューズっていうからにはカンフー練習用だと思って買ってみたのだが、最初はすっぽ抜けたりして、安物買いの銭失いだったか? と後悔した。
でも、せっかく買ってしまったのだし…と使い込んでいるうちに、普通の運動靴より使いやすく感じるようになってきた。
それで、履き潰しては買い替えてを繰り返している。
棍を入れた袋を背負い、自転車に乗り、湖のキャンプ場のある公園に行く。
庵天先生が旅に出てからも、みんなで太極拳の練習を続けていたが、中学生になると、だんだんと集まる日も減ってきて、ひとりで練習することが多くなっていた。
西に傾きかけた太陽に向かって、じっと立つ。站樁功だ。
暖かい。
湖面に水鳥が舞い降りて、羽を休め姿が逆光でシルエットになっている。
木の影が、北から東へ、だんだんと移動していく。
太児は歩幅を前後に広くして、両手を肩の高さに上げ指先を天に向けた。
後ろ足に体重を載せたまま、まっすぐ沈み、低くなる。お尻は地面まで10センチまで近づく。ふーと、鼻から息が抜ける。
ゆっくりと、体重が前足に移動し、体が浮かび上がる。頭はまっすぐのまま上体は同じ形を保っている。
再び、後ろ足に体重を載せ、低くなる。
この動作を、64回繰り返し、左右の足を入れ替え、また64回。汗が出てくる。
立ちあがり、手足をブラブラさせてほぐした後、今度は立った姿勢から、右足を折りたたみ、まっすぐに沈み込む。左足は、滑らせ前方に広げ、低い姿勢になる。
伸ばした左足の方に頭の重みを載せ、まっすぐ立ちあがる。右足は引き寄せられる。
次は、引き寄せた右足を、先ほどと同様に前に滑らせ広げ、垂直に沈み込む。
沈みゆく夕日を横に見て、一直線上を、高くなったり低くなったりしながら、交互に脚が出して、前進していく。
8歩進んだところで、振り返り、元居た場所にズリズリと進む。これを8回繰り返すのだ。
地面に、足を引きずった跡が直線状に描かれている。
太児は木に立てかけていた袋から棍を取り出した。
両手で棍の中程を持ち、左右にグルグルと回す。棍は体に密着し、両脇の下を通る。
時々、棍がポケットのボタンに当たって、カチンカチンと音が鳴る。
棍の回転はだんだん速くなり、ブンブンと風を切る音が鳴る。
「たーいじっ」
制服姿で自転車に乗った美鈴が現れた。
「あれっ。今帰りなの?」
「ちょっと生徒会執行部に挨拶に行ってきたわ」
「生徒会って…選挙でえらばれるんじゃないの?」
「そうよ。でも、立候補受付を待って、それから公約を考えて、選挙演説をして…なんてチンタラやっていたら、遅いわ。初日が肝心。もう現執行部の先輩たちの心はつかんだわ」
「美鈴は、すごいね…。そんな先々まで考えて動くなんて…。ぼくには考えも及ばないや」
「でも、太児の黙々とずーっとやり続ける根性もすごいわよ。それ、庵天先生に4年前に出された宿題でしょう? まだやってたのね」
「だって、套路はよくわからないんだもん」
「一緒にやろうよ。私は順番覚えてるわよ」
「心強いけど、スカートでやるつもり?」
「ジャージに着替えるわ」
そういって、カバンから出したジャージをスカートの下に履いて、スカートを脱ぎ、制服の上着も脱いで、ブラウスの上から中学校時代のジャージを被る。
太児はドキッとする。
「ちょっとは恥じらえよう」
「だっさいジャージを?」
「うん、ダサい」
そういって、太児は自分の気持ちをごまかした。
「じゃ、いくよ」
美鈴がそう言って、太児の隣に立つ。西の空はだんだんと赤みを増し、湖面がほのかに光っていた。風が少し冷たくなりはじめた。
「準備式」
美鈴の声に合わせて、二人は同時に動き出す。両手を胸の前に広げ、静かに息を吸い込む。太児は、地球の引力や、筋肉の動きひとつひとつを意識している。美鈴の動きは滑らかだ。というか、テキトーだ。
(こんなんだったっけ…)
太児は、美鈴のフォームを横目で確認しながら、自分の動きを微調整していく。
「次、単鞭」
「うん……!」
このあたりまでは、散々練習してきたから、自分の方がちゃんとしている、と思う。
膝を沈め、腕を前にすっと伸ばす。夕陽に照らされた二人の影が、長く地面に伸びる。
「…美鈴って、いつどこで練習してたの?」
「朝6時に起きて、30分ベッドの横で。」
「すごい。毎日30分も?」
「毎日でもないかも」
「でもすごいよ」
「30分もしてなかったかも」
「でもすごい」
「太児には後れを取りたくないからね」
太児はおおむね毎日、日の出前から一時間は練習していた。多い日は3時間くらい練習している。套路はあまり正確さに自信がなかったので、基本功が中心だ。
美鈴は、基本は少し怪しいが、套路の順番をちゃんと覚えている。
美鈴に引っ張られるように、套路の最後の動作に入った。
震脚で締める。
「……合ってた…? 今」
「うん、合ってたよ!」
太児は、少し疑わしかったが、美鈴は自信ありげだった。美鈴にはかなわない、と思う。
湖の向こうに、太陽が静かに沈んでいく。
その日の夜、太児は夢の中で、昔の陳家溝に来ていた。
ずいぶん久しぶりだ。
寝ている時だったから、木の珠が光ったのかどうかわからない。
埃っぽい広場に、少し背の伸びた楊露禅がいた。
以前より、身なりも小ぎれいになっている。
「漢方の仕入れとか、お客の対応もするからな。おいら、もう店の顔だよ」
「すごいなあ。責任ある立場なんだね。ぼくは高校生で、何の責任もないなあ」
太児はこちらの世界でも取り残されているような気がした。
「套路を覚えきれないって? じゃあ、自分で組み立てればいいじゃん」
「えっ、勝手に作っていいものなの?」
「套路は基本動作を繋げたものなんだから、今やっているのを繋げていけばいいんだよ」
「練習している基本を全部繋げても、そんなに長くならないよ」
「じゃあ、同じことを繰り返したらいいのさ。おいらも最初は、短い套路で練習してたよ」
「えっ、短い套路があるの?」
「もともと、陳氏の拳術は、少林拳や回族の武術をベースにした短い套路が五つだったんだよ。それを繋げて長い套路にして練習しやすくしたのは、陳長興、おいらの師匠さ」
「えーっ、そうだったの?」
「おいらも、ずいぶんアイデアを出したよ。今の套路は、ま、師匠とおいらの合作といってもいいかな」
エッヘンと得意げな楊露禅。
「楊君、すごいじゃん」
「なにをいまさら。楊式太極拳も、将来おいらが作ることになるんだから。知ってるだろ?」
「ゆるやかで、激しい動作のない太極拳だね」
「清王朝の王族の子弟に教えるとき、キショク悪い宦官どもに、バタバタうるさいって怒られて、柔らかい動作ばかりに変えることになるのさ。後半の炮捶の部分は、全カットする」
「それが、ぼくの時代にまで伝わって、太極拳の主流になるんだなあ。…って良く未来のことがわかるね」
「そりゃ、ここが太児の夢の中だからさ。でも、太児は陳氏のノーカット版武術を極めろよ。おいらも指南してやるから。太児の時代の套路とは、違ってるところもあるかもしれないけどな。太極拳の原理原則に会っていればいいのさ。本来は一人一太極拳だ」
夢の世界で、楊露禅に合わせて、太児も套路を打った。
美鈴のアヤフヤ太極拳とは明らかに違う。庵天先生の太極拳とも違っているが、感覚は全く同じだった。