この物語はフィクションです。
第五十五話 庵天先生の旅立ちのこと
太児が目を覚ますと、ベッドの上だった。
「太児、起きた? あなた昨日、ピアノを弾いているうちに寝ちゃったのよ。もう、すっかり重くなっちゃって、ベッドまで運ぶのが大変だったわ」
「えっ、そうだったの? ごめんなさい…」
太児は、起き上がって、ピアノの上に置いていた木の珠の入った袋を、首にかけた。
「お父さんからはまだ何も連絡はないの?」
「まだないわねえ」
「…故宮博物館に行ったんじゃないかなあ…と思う」
「あら、どうして?」
「なんとなく…」
「故宮博物館なんて、良く知ってたわねえ。あなたが生まれる前に、お父さんと二人で行ったことがあるわ。一日で全部は回り切れなくて、お父さんは残念がっていたの。もしかしたら、お仕事のついでに、寄るかもね」
その日、ポストに故宮博物館の絵葉書が届いていた。お父さんからだ。
裏面は博物館のイラストだった。
表にはお父さんの字。
「拝啓 台湾は旧正月でにぎわっています。日本より暖かで過ごしやすいです。久しぶりに訪れた故宮博物館を堪能しました。探しものは見つからず。まだ当分こちらかな。風邪ひかないように健康でお過ごしください」
消印は「台北」の文字と、旧正月の日付スタンプが押されていた。
太児は絵葉書をじっと見つめた。
描かれた博物館の建物のシルエット、その後ろに見える山の影。
「やっぱり、故宮博物館だったんだね…」
「太児、当たったわね」
お母さんが笑った。
「探しものは見つからずって、何を探してるんだろう…」
太児は、首にかけた木の珠を袋の上から握りしめた。
この珠は、庵天先生から託されたものだ。たしか、7つある珠の一つだと言っていた。
この珠に導かれ、昔の台湾に行き、杜毓澤に出会った。
七珠はそれぞれ、仁・義・礼・智・信・厳・勇の徳を象徴していて、杜毓澤は信の珠を預かって、今は故宮博物館にあると言っていた。
もしかして、お父さんは信の珠を探しに行ったのでは?
でも、なぜ?
庵天先生は、知っている?
晶ちゃんのお父さんが、うっかり手に入れて、外国のスパイに狙われたものって、なんだったんだろう?
春子さんが没収したみたいだったけど、あれも7つの珠の一つだったとか?
わからない。
でも、いろいろ繋がってくる。
どうなってるの??
「あら、太児君、いらっしゃい」
春子が、迎え入れてくれた。
「寒かったでしょう。雪が降ってきたわね」
「先生は…?」
「ちょっと今、でかけているわ」
「えっ、それは、なにかの任務で? お父さんと関係あるの?」
「ええっ…」
ちょっと言葉を詰まらせた春子。
「もうすぐ帰ってくると思うから、おはいりなさい。お茶漬けでもどう?」
「えっ、それは、歓迎されていない意味の暗号では?」
「バカねえ。京都人じゃないわ。ちょうどご飯が焚けたし、永谷園のお茶漬けの元があるのよ。なんなら、柴漬けもあるわよ」
「ありがとうございます…」
寒い中を歩いてきたので、温かいお茶漬けが五臓六腑に染み渡る。
「お父さん、出張に行ったきりなのね」
「そうなんです。絵ハガキが届いたけど…。これです」
絵葉書を春子に見せる。
「故宮博物館ね…なるほどねえ」
春子がなんだか納得している。
アパートの駐車場に、クルマの止まる音がした。
バンのハッチバックを開ける音、荷物を下ろす音がして、玄関のドアが開いた。
「おっ、太児、きてたのか」
「こんにちは、先生…って、それは!?」
「うん、イノシシだ。猟のシーズンだからな。猟師から買い取ってきた。今から解体するけど、手伝ってくれるか?」
「げげげ」
「もう死んでるし、血抜きもしてある。解体して冷凍保存しておくんだ。またバーベキューできるぞ。春子、とりあえず、俺にも茶漬けをくれ。山は寒かったよ」
三人で軽い昼食の後、作業服に着替えて、解体作業にかかった。
以前、昔の陳家溝で羊の解体を見たことがあったが、夢でない現実のイノシシの解体は、さらにグロテスクだ。
庵天先生と春子さんは、慣れた手つきでテキパキ要領よく、イノシシを捌いていく。
太児もナイフを使わせてもらって、イノシシの足をおそるおそるバラしていった。
「太児、お父さんのことだけどな…」
「はい」
イノシシが、あらかたバラバラになり、ナイフを使う作業も終わったところで、庵天先生が話し出した。
「お前のお父さんは、俺の生徒だったんだ」
「ええっ、太極拳の?」
「いや。日本を守るための秘密機関で俺が教官をしていて、お父さんが訓練生だった。卒業してからは、同士だな。いろんな作戦を一緒に遂行した」
「え…そんな…お父さんが…スパイだったの?」
太児の声は、驚きと戸惑いに満ちていた。
庵天先生は、静かにうなずいた。
「スパイっていうのと、ちょっと違うかもしれないが、情報戦や邦人や文化財の保護、それから国際的な交渉の裏側に関わる特殊な仕事だ。武器を持って戦うのとは違うが…命を懸ける場面もあった。お前のお父さんは優秀だった。先の見えない作戦でも、信じる力を持っていた」
「じゃあ…やっぱり、お父さんは信の珠を探しに台湾に…?」
「ん? なんで信の珠だと思った?」
「昔の台湾で、杜毓澤先生の話を聞きました」
「えっ、そうなの? その話、教えてくれ」
「いいけど…なんで、珠を探してるのかも、教えて欲しいです」
春子が口を挟んだ。
「陳氏の宝だった7つの珠が揃ったとき、何かが起こるって…古い記録がでてきたのよ」
「何かって…?」
「歴史を変えるような、大きな力が目覚めると書かれていた。けど、悪用すれば、世界のバランスが崩れる…」
庵天先生が、じっと太児の目を見つめた。
「お前に渡した珠、テツさんがもってた義の珠、お前のお父さんが探し出した智の珠、いま三つの珠がこちらにある。そして、信の珠が台湾にあるらしいとわかって、お父さんが探しに行ったんだ」
「まだ見つかってないってこと?」
「帰ってこないところを見ると、何か手がかりをつかんで、追いかけているんだと思う。まったく当て外れなら、とっとと帰ってきているだろうしな」
太児は、握りしめた珠の温もりを感じながら、少し唇をかんだ。
「連絡は取れてないの?」
「暗号の無線でやり取りはしているが、スパイひしめく真っただ中だからな。そんなに頻繁には連絡していない」
「お父さん…ひとりで、危ない目にあってないかな…」
庵天先生が、しばらく黙っていたが、ゆっくり言った。
「お父さんは何か情報をつかんだようだが、その直後から連絡が取れなくなっている。C国と台湾、二つの国の行く末に関わる力に触れているんだ。最大限に用心しているはずだ」
庵天先生の言葉を、春子が遮るように続けた。
「心配しないで。ヘマはしないわ。強い信念を持っているプロフェッショナルよ」
太児は、ゆっくり言った。
「ぼく、行きます」
「どこへ?」
「台湾へ。お父さんを探しに…」
庵天先生は、ゆっくり首を振った。
「気持ちはわかるが、ダメだ。俺が行く。しばらく行ったきりになるかもしれん」
「えっ、そんな…」
「お前は、お母さんを心配させるな。それから、太極拳をしっかり練習しておけ。きっとのちのち役に立つ。今のお前に教えられることは、全部教えた。俺がいない間、春子が力になる。何でも相談しろ。ヒロもかまってくれるだろう」
太児は黙りこくった。
「拳二や美鈴ちゃん、晶ちゃんには、お前が教えてあげるんだ。東山先生にも伝えておく。きっと力になってくれる」
太児が頷いた。
「このイノシシ、冷凍しておくからな。みんなでバーベキューしたらいい。何回分くらいあるかな…。食べきるまでには、きっと帰ってくる」
イノシシを小分けにして、包んで冷凍したあと、ぼたん鍋の夕食になった。
太児は、タイムスリップした台湾で見聞きしたことを庵天先生に伝えた。
「俺は明日、出発する。太児には太極拳の秘伝の書も渡しておこう。今見たってわからないかもしれないが、行き詰った時に開くといい」
太児は、年季の入った革表紙に「陳氏太極拳図説」と筆書きされた分厚い冊子を受け取り、リュックサックに入れた。