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書道小説「太児」第五十二話

この物語はすべてフィクションです。

第五十二話 書道と太極拳のこと

学校では、お習字の時間。

新年を迎えて、書初めだ。

教室には静けさが流れ、みんなが硯に向かって墨をすっている。

「……あっ!」

太児が手元を滑らせ、机に墨をこぼしてしまった。真っ黒な水たまりが広がる。

「落ち着いて…。心を鎮めてね…」

堤先生が優しく声をかける。

晶が手を挙げて聞いた。

「先生、墨汁使ったらあかんの?」

堤先生がニッコリ笑って言う。

「墨をすることにも意味があるのよ。この時間が、心を整える禅のような時間になるの。精神を集中させて、硯に向き合うのよ」

しばらく教室には、墨をする音だけが響いていた。

拳二が筆を取り、「拳禅一如」と大きく書く。

「拳二くんは少林寺拳法ね。武芸十八般に書道は入っていないけど、文武両道は武士のたしなみ。宮本武蔵も剣だけじゃなく、書や絵もたしなんだのよ」

太児はその言葉を聞いて、楊露禅から聞いた琴と太極拳の話を思い出した。

「書って、太極拳のリズムにも似てるのかも…」と、心の中でつぶやいた。

「書は、絵に似ているとも言えるわ。空間の使い方、縦横の構成、止め・はね・払いの動き。音楽のリズムとも通じるところがあるの」

堤先生の言葉に、真剣な気持ちになる。

「それに、書は人の性格も映し出すのよ。几帳面な人、大胆な人、雑な人、うっかりさん、きちんと後始末をする人…心と向き合って書いてみてね」

太児は一枚目に「仁義」と書いた。

「いいわねえ、太児くん。思いやりと正義の心。でも、仁義だけだと、なんだか…おひかえなすって!ってかんじね」

堤先生が、おひかえなすって! といいながら、ガニ股に脚を広げ、右掌を腰の前に差し出す。

小学生の太児には、何のパロディなのかよくわからない。

「紙が小さくて、七文字は書けないんです…」と太児。

「何枚使ってもいいわよ…」

二枚目に字を小さくして「礼智信義勇」と続けた。

「筆で小さい字を書くのは難しいな…」

隣を見ると、伊東道戒がさらに小さな字で、何やらびっしりと書いている。

「それは?」

「般若心経です」

その達筆ぶりに、みんな思わず見入った。

一方、美鈴の紙には「八方美人」の文字。

「どうしてこれを?」と堤先生が聞くと、

「どこから見ても、美しい人になりたいからです!」

「……ちょっと意味が違うかもね」

晶の書いた作品は「確定申告」

「なんでまた……?」

「脱税は重罪やで」

「立派よ、晶ちゃん…」

堤先生は思わず涙ぐみながら、筆を取った。

「私も、心を込めて書いてみようかしら」

半紙に書いた文字は「勇人」

「女の子なら智恵っていうのもいいわね…」

堤先生の表情に、不安と幸福が混じった色が浮かぶ。

「ええやん、先生! チエって、なんか懐かしい響きやわ」

生徒たちは次々に、自分の想いを込めた言葉を半紙に綴っていく。

「努力」「勝利」「友情」「全集中」「笑止千万」「生殺与奪」「猪突猛進」「悪鬼滅殺」「夜露死苦」「愛羅武勇」「天上天下唯我独尊」…

堤先生が最後に言った。

「最近は、年賀状も書かなくなって、筆を持つ機会が減ってきているわね。でも、書道は日本の大切な文化。おうちでも、ぜひ筆で字を書いてみてね」

 

放課後の公園で。

太児の作品「仁義礼智信義勇」を見て、公園に来ていた庵天先生がぽつりとつぶやいた。

「なんでまたこの字を選んだものか…。運命なのかなあ」

「えっ、学校の授業で習ったんだよ」

「そうか。うん。いい筆の流れだ。…書ってのは、ただ字を書くだけじゃない。呼吸と心と、動きの型が合わさった芸術だ」

太児がうなずく。

「太極拳にも通じるんだね」

庵天先生は、笑って言った。

「まさにそうだ。太極拳は、呼吸に合わせてゆっくり動くだろう。ゆるやかな動きの中に芯がある。書も同じだ。ゆったりと筆を運ぶ中に重心と勢いのコントロールがある。濃淡は剛柔だし、空間の使い方は、戦術だ」

庵天先生が、文字を空間に書くように手を振る。

掌が鈎手に変化する。

「…俺は昔から筆が苦手でなあ。ちゃんと習っときゃよかったって、今ごろ後悔してるよ。太極拳の名人は、書も上手じゃないと、カッコがつかん」

少し寂しげに笑った。

「若いころは、字なんて読めりゃいいと思ってたけどな、年を重ねてわかったよ。筆ってのは、心を写す鏡だってな」

庵天先生が小枝を拾い、少し迷ったあとに、一文字、砂に書いた。

「静」

「……こんな字が、自然に書ける人間になりたいもんだ」

ドラゴンパパ:
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