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    Categories: 小説

道徳教育小説「太児」第四十三話

この物語はすべてフィクションです。

第四十三話 正義と平和と命のこと

黒板に、チョークで書かれた大きな文字。

「正義・平和・命」

道徳の時間。今日は堤先生の授業だ。おっとりした口調なのに、言葉にはいつも芯がある。

教室は、昼休み明けの眠気も吹き飛ぶような空気で満ちていた。

「みんな、正義ってなんだと思う?」

美鈴が手を上げた。今日も元気だ。

「困ってる人を助けるのが正義だと思いまーす。いじめを見たら止めるとか!」

堤先生はにっこり微笑んだ。

「素敵ですね。じゃあ…困ってる人が、悪いことをしていたらどうしますかー?」

美鈴が困った顔になった。

「うーん…それでも助ける、かな。まず話を聞いてから」

「なるほど、悪人の言い分もよく聞く。それも一つの正義ですね」

「オレは、悪いやつはぶっ飛ばすな!」と拳二が机から前のめりに口を挟む。

「平和は力で作る。力なき正義は無力だ!」

クラス中がクスクス笑った。

「ぶっ飛ばしたら、またぶっ飛ばされるやん」と晶。

「それより、ホルモンでも一緒に食うとったほうが、仲良くなるで」

「平和はコミュニケーションからってことね。素晴らしいわ」と堤先生。

なるほどなあ、でも襲い掛かってくる敵にホルモン焼きを差し出して、おとなしくなるかなあと太児は考えた。

堤先生がさらに問いかける。

「ほかに正義についてなにか、アイデアのある人は?」

クラスメイト達が、次々を手を挙げる。

「信号無視をしないことです!」

「ポイ捨てもしない」

「立ちションしない」

「寄り道しない」

「買い食いしない」

みんな口々に発言する。

「それって、みんなルール違反や、マナー違反をしないってことよね。というか、寄り道や買い食いは、校則違反ではあるけれど、正義に反するってことはないと思うんだけど…」

「そうや。寄り道や買い食いは、経済を回して、国を豊かにするんや。それは正義や!」

晶が力強く主張した。

後ろの方の席で、目を閉じて静かに座っていた恰幅のいい少年が、静かに手を挙げた。

「はい。伊東道戒くん」

「殺生しない。盗まない。嘘をつかない。酒を飲まない。不倫しない」

「さすがお寺の子…。五戒ね。不倫ってなんだか知ってるの?」

「はい。私の父が、檀家の奥さんと…」

「いえ、もういいわ。ごめんなさい。次の人」

太児が手を挙げた。

「正義って、状況や環境、見方や立場で変わると思うんです。絶対真理の正義って、わからないです」

「深いわね。太児君。悪の代表みたいに思える戦争も、正義と正義のぶつかり合いだしね…。愛の在り方も、その立場によって、正しかったり間違えていたり…。正義なんていってるのは、人間だけかもしれないわ。クマが人を襲うのは、正義でも悪でもないわね」

うーんといって、みんな考え込んでしまった。

「次に聞くけど、平和って何だと思う?」

次々と手が上がる。

「戦争がないこと」

「豊かなこと」

「自由に生きられること」

晶が答える。

「順子(シュンツ)で両面待ち」

「それは麻雀の役のピンフね。クラスのみんなにはわからないわ」

美鈴が答えた。

「平和って、子供が伸び伸びと育つ世界のことじゃないかなあ?」

堤先生が、一瞬黙ったのち、目を泳がしながら同意した。

「そ、そうね。子供を育てられないような世界は平和じゃないかもしれないね…」

「はい」

「伊東道戒くん」

「仏の教えでは、外の世界がどうであれ、心が安らかであることが真の平和だと説きます。涅槃といいます」

「そうなのね…」

「環境や状況は関係ないのです」

堤先生は、黒板にもう一つ、問いを書いた。

「命を選ぶとき、あなたならどうする?」

晶が聞いた。

「子供を産むか産めへんか、選ぶってこと?」

「えっ、いきなりそこ…?」

堤先生がなぜか動揺する。

「そうじゃなくて、たとえばよ、もし、自分の命と友だちの命、どちらか一つしか救えないとしたら…とか、そんな質問よ?」

誰もすぐには答えない。

「はい」

「伊東道戒くん」

「仏の教えでは無我、自他の区別は幻想ですから、どちらかを選べという問い自体が執着となります」

「そうなの…」

「赤子は胎内に宿った瞬間から命ですので、生まないことは殺生となります」

「そ、そ、そうなの…」

「どう選ぼうと御仏は責めはしません。苦しみに寄り添う慈悲を重んじます」

「そうなのね…」

堤先生が黙りこくってしまった。

晶が、大きな声で発言した。

「私は自分優先やな。自分の命には責任があるもん」

「俺も。人の命よりわが命。余裕があったら、人も助けてやらないこともないかな」

と拳二。

太児が答えた。

「…本当に、選ばなきゃいけない時ってあるかもしれない。でも、誰かを見捨てたことは、きっと一生消えないと思う」

美鈴も発言する。

「私は、自分の命を犠牲にできるかどうか、わからない。怖いから…でも、見捨てたくないって思う」

しばらく教室に静かな時間が流れた。

伊藤道戒が静かに口を開いた。

「真摯な懺悔と慈悲の実践が、新たな因果を生みます。過去を消せなくても、今をどう生きるかが大切です。菩薩行といいます。ご供養ならうちのお寺でどうぞ」

堤先生が言った。

「今日、みんなの話を聞いて思いました。正義に絶対ってないんだって。平和は、努力が要るんだなあって思います。そしてすべての命は大切なもの。私たちは簡単にどちらかを選ぶって言えないね」

堤先生が、きゅっと口を結んだ。

「…私、産むわ」

晶が後ろにひっくり返り、美鈴は飛び上がった。

「ええっ、先生、結婚してたの?」

「おめでとう! 先生」

「ハッピーバースデー!」

「こんにちは、赤ちゃん♪」

教室が祝福の言葉で騒然となる中、チャイムが鳴る。

その喜びの中に、命を想う静かな決意があった。

ドラゴンパパ:
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