この物語はすべてフィクションです。
第42話 正義と道徳と信念と達人のこと
夕食の時間、太児は父の侠太郎に聞いてみた。
「お父さん、正義って何? 国や時代で変わるものなの?」
「太児、ずいぶん、深いことを考えているんだな…」
「法律を守ることが正義で、法律違反が悪じゃない?」とお母さんが言った。
「その法律が、曲者だな。法律も時代や国によって変わるものだよ。今の日本では、人を殴ったり傷つけるのは悪だし、罪だよね。でも、殴って従わせることが普通だった場面もあったんだよ。人権なんて言葉すらなかった時代もあるし、未だに人権がないような国もある」
「つまり……正しさって、変わる?」
「変わる。日本だけ見ても、道徳は何度も変わってきたよ。人権、平和、倫理、全部が時代の産物だね」
「人権がない国なんてあるの?」
「弱ければ踏みつけられるみたいな国もあるよ。人間が多いと、全員が大事にはされない。都市では法治が進んでるけど、田舎ではまだ情理が正義だったりする国もある。だだっぴろい国だと隅々まで制度が行き渡らない。ある都市では盗賊を殴れば罪なのに、ある村では盗賊を縛り首が正義だったりする」
「…」
「嘘をついたり隠し事をしたり盗んだりは、普通に考えれば悪いことだろう? だけど国のために情報操作したり、隠ぺい工作をしたり、秘密を盗んだりすることは、正義だ。拉致や暗殺だって、やってしまう」
「え……じゃあ、何が正しいの?」
侠太郎が、太児の目をまっすぐ見つめる。
「太児。正義は誰が決めると思う?」
お母さんが言った。
「神様じゃなさそうね」
太児が答える。
「…偉い人? 政治家とか…?」
「そうだ。独裁社会だと、独裁者が決めるし、民主主義なら多数決の合意で決まる。だから正義は変わる。国家が変われば、法律が変われば、戦争になれば、平和になれば…正義は、いくらでも書き換えられる」
太児は震えながら呟いた。
「誰かが決めた正義を、信じていたらダメなのかな…」
「人の取り決めにしたがっておけば、考えなくていいし、罪にならないから、楽だよ。だけど、法律さえ守っていれば、いいかどうかは、わからないね。人間が作った決まり事より、もっと大きな真理があるかもしれない。それこそ神様が作ったものだな」
侠太郎は一度言葉を切り、箸を置いた。
「太児。法律や正義は、人が人を縛るための道具でもある。必要だからあるし、守らなきゃいけない。だけどな……」
太児は息をのんで、父の次の言葉を待った。
「妄信すると考えなくなる。命令だった、決まりだった、みんなやってた、って言えば、考えなくて済んでしまう。その方が楽なんだ。自分の心に向き合わなくてすむからな」
お母さんが、少し心配そうに太児を見て言った。
「でも、いちいち自分で判断して決めるのも、苦しいわよ」
「うん。だからこそ大事なのは――」
侠太郎は、太児の胸のあたりを、指で軽く指した。
「自分の中にある、ここは守りたいって線だ。それを、信念って呼ぶんだと思う」
「信念…」
「国が変わっても、法律が変わっても、これはやる、これはやらないって、自分で選び続けることだな。自分はどうありたいか、ってことかもしれない」
太児の脳裏に、あの光景がよぎる。
馬のいななき。血の匂い。倒れた盗賊。
自分は正しかったのか。仕方なかったのか。
「……もし、その信念が間違ってたら?」
侠太郎は、少し困ったように笑った。
「間違うこともあるさ。人間だもんな。でもな、考えて選んだ間違いと、何も考えずに従った正しさは、同じじゃない」
庵天先生の声が、太児の胸に重なる。
…正義は変わるが、信念は自分で選ぶ。
「太児」
侠太郎は、穏やかな声で続けた。
「誰かが決めた正義が悪いわけじゃない。でも、丸呑みにするな。本当にそれでいいのかって、自分の心に聞け」
太児は、ゆっくりとうなずいた。
「…自分で考えないといけないんだね」
「そうだ。怖いし、面倒だし、答えが出ないことも多い。でも、それをやめたら人は、簡単に人を傷つけられる。だから、いつでも問いの中に生きるんだ」
「問いの中に生きる…」
「それが達人だ」
夕食の湯気の向こうで、太児は静かに拳を握った。