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時代小説「太児」第4話

第四話 異世界にタイムリープのこと

夜になり、湖畔のキャンプ場は静かな波の音だけが聞こえていた。

太児はテントの中で、目を閉じたり開けたりしながら、ごろごろと寝返りを打つ。

眠れない。

太児は何度も、昼間に見た庵天さんの剣の舞を思い出していた。

それは、風のようで、波のようで、自由だった。

庵天先生が言った言葉。

「水面のような静かな心…心を澄ませて、呼吸を合わせるんだ」

手元のランタンの光で、ポケットから取り出した小さな袋をそっと開ける。

庵天さんがくれた木玉だ。直径三センチほどの、少しひび割れた茶色い木の球だった。赤い紐が巻き付いている。

「また近いうちに会うだろうが、ご縁にこれをやろう。昔中国で見つけた縁起もんだ。お守りにしな」と言って、手渡してくれたのだ。

「……なんだろうな、これ」

寝袋の上に座り、木玉の糸を首にかけ、昼間に見た剣の動きを思い出しながら、テントの中でゆっくり動いてみた。

深呼吸をして、肩を落とし、心を静める。

吐く息とともに、頭の中のざわめきが消えていく…。

木玉が、かすかに光った。

テントの布が、風に揺れたように、ゆらりと波打つ。

波の音が、消えた。

「……え?」

太児が手を伸ばした瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。

ランタンの灯りが遠ざかり、足元の寝袋が溶けるように消えていく。

風も、波の音も、遠くへ押し流される。

代わりに、重い土の匂いと、柔らかい陽の光が差し込み、遠くから羊が鳴く声が聞こえてきた。

そこは、崩れかけた土壁の家々が並ぶ畦道だった。

畦道の向こうには緑の畑が続き、畑の上に広がる空は、黄色っぽい。

古風な衣をまとった人たちが、畑の中で、ゆったり動いている。

「ここは……?」

木玉は光を失い、ただの茶色い玉に戻っていた。

太児は、何が何だかわからない。

背後から軽い声がした。

「来たか…」

振り向くと、そこには髭を長く伸ばした初老の男が立っていた。手には木鍬(きぐわ)、腰には小刀。

顔には深い皺が刻まれているが、目は意外と優しい。

「…ちょっと手伝え。田を耕すぞ」

「えっ、なんで、いきなり??」

太児は木鍬を握らされ、男と一緒に、畑を耕した。額から汗が流れ、手のひらにマメができる。

「お前さん、うちの拳術に興味を持っただろう。それで時空を超えてワシのところに来たのじゃ。お前さん達の世界じゃ、ワシが太極拳の創始者ってことになっとるようだ。ワシは昔から伝わる拳術をまとめて、村の連中に伝えただけじゃが、何百年も続いて、異国にまで広がっておるとは嬉しいもんだのう。ワシの名は陳王廷という」

「えっ、太極拳?何百年?」

「拳術は人が生きる道でもある」

「……生きる道?」

「そうとも。大地を耕すのも、拳を練るのも、似たようなもんじゃ。雑草を抜き、根を深く張り、雨風に負けない体をつくる…」

一息ついて、川で顔を洗い、腰を下ろした太児の目に、剣が映った。

陳王廷が、ゆっくりと小刀を抜いて舞い始めたのだ。

あの湖畔で見た庵天先生の剣の動きと似ているが、もっと生々しく、土と血の匂いがするようだ。

小刀の動きは、「型」であり、「呼吸」であり、「生きる道」だった。

「お前に、いい友達を紹介してやろう。そこの小僧だ」

陳王廷が指差したのは、太児と同じ年くらいの痩せっぽちで歯の抜けた少年だった。古い平屋の建物の前で両手を広げるポーズをとっている。頭に手ぬぐい、肩に布袋を背負っている。

少年がこちらに気づいて、言った。

「…うん? 見かけない、ドンくさそうなやつだな。村のもんじゃないな。誰だ」

「柔太児…」

「おいらは楊露禅(ようろぜん)、この薬屋の丁稚だ。漢方薬を買いに来たのか?」

楊露禅は、活発でおしゃべり、人懐こい目をしていた。

「初めてのお客様には、漢方の処方代は一割引きの大サービスだ。風邪でも引いたか? 夜眠れない? それともウンコが出なくなったか?」

「えっ。いや、薬はいらないんだけど…」

太児は陳王廷に助けを求めようとキョロキョロしたが、その姿はもうなかった。

「…この小僧は村の生まれではないが、いずれ大物になるだろう…仲良くしておけ…」

陳王廷の声が遠くになった。

楊露禅の声が大きくなった。

「それじゃ、武術を習いに来たのか? よそ者は習えないぜ。シッシッシッ! 門前払いだ! と言いたいところだが、おいらも同じ立場だ。大目に見てやるから、やりたきゃ勝手に真似でもしてろ」

楊露禅のポーズは武術の型のようだった。一つ一つの動きの意味はわからない。緩やかなのに力強く感じる。

太児は見よう見まねで真似し始めた。

手を右に引き、左足を踏み出す。

ゆっくりと、空気をかきわけるように手を動かす。

左手の平に、右拳を下ろして合わせ、上げた右足がまっすぐ地面に吸い寄せられ、地球と一つになる。

とても心地よい。体が水の中を動いているようだし、空気が体を通り抜けるかんじもする。

楊露禅が驚いた顔で見ていた。

「おい、はじめてにしては、うまいじゃねえか。村の外にも先生がいるのか?」

「いや、まだ何も習ってないけど…。先生はいるよ」

太児の心が少し軽くなった。

ドラゴンパパ:
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