この物語はすべてフィクションです。
第三十六話 逃亡兵と平和的武力解決のこと
粗末な小屋の中に、太児は座っていた。
顎から長い白髭を垂らした老人が、土間に置かれた低い椅子に腰かけ、低い机に向かって筆を走らせている。
窓の扉は開けられ、部屋にはやわらかな光が差し込んでいた。外からはニワトリや羊の鳴き声、さらには川の流れる音まで聞こえてくる。
老人は、時折筆を置いて拳を握り、ゆっくりと空中に漂わせたり、ふいに立ち上がったりしていた。
「……陳王廷老師?」
「さよう」
「さっきは若かったのに、おじいさんになってる!?」
「時間を自由に操れると言ったじゃろう」
「何をしてるんですか?」
「拳譜を作っておる」
「ケンプ?」
「拳術のテキストじゃよ。口伝だけでは忘れ去られてしまうこともある。後世の修行者が参考にできるよう、わしが研究したことを書き残しておるのじゃ。続く者がまた磨いてくれればよい」
「今は平和なんですか?」
「まだ世の中が安定したとは言えんが、わしはもう引退した。武将になりはしたが、殺し合いは虚しい。ひどい時には部隊が壊滅し、一人で敵軍を相手にしたこともある。謀略に巻き込まれ、何度も死にかけた。五体満足で故郷に戻れたのは奇跡じゃ」
陳王廷が振り向いて、ニッコリ笑って言った。
「今は晴れた日は農耕に励み、雨の日は書を書いたり、村の子供たちに武術を教えたりして、穏やかに暮らしておる。争う気持ちもなくなったわい」
静かな時間が流れ、影が伸び、空は赤く染まりはじめていた。
そこへ突然、犬が激しく吠え、人の怒鳴り声が響いた。
「どうしたのかの?」
陳王廷と太児が外に出ると、村の入り口に鎧を着て武器を持った男が三人、怒声を上げていた。
村の老人が話し合おうとしているが、逆に罵声を浴び、槍や刀を振り上げられて脅されている。
「どうしたのじゃ」
「あっ、王廷老師。逃亡兵が入り込んだようで……武装したまま、食料や女を差し出せと要求しているんです」
「取り押さえりゃよいじゃろ」
「それが威勢のいい若い衆はみんな外へ出ていて、村長だけでは手こずりそうで……」
「ふむ。ならば、わしも行くか」
「お願いします」
陳王廷は、とことこと歩いて近づき、淡々と言った。
「お前たち、逃亡兵だな。武器をそこへ置け。食料ぐらい分けてやる。大人しく出ていけ」
逃亡兵の一人が怒鳴った。
「なんだと、この死にぞこないのジジイが! まずはお前から血祭りにしてやる!」
言うが早いか、男は陳王廷に向かって槍を突き出した。
しかし陳王廷は「やれやれ」とでも言いたげに、槍の先をふわりと撫でた。
途端に男は叫び声を上げ、すっ飛んで畑へと逆さまに落ちた。
「このジジイ、何を――!」
二人目の兵士が刀を振り上げる。
陳王廷は、振り下ろされた刃の下へすっと潜り込み、兵士の手首と肘を軽く撫でた。
次の瞬間、兵士は地面にぐしゃりとへばりついた。
予想外の出来事に、三人目は硬直して動けない。
陳王廷と目が合った瞬間、その場に崩れ落ちて気を失った。
「老師がいて助かったよ。まったく、相変わらずの達人ぶりじゃ」
村長が言い、周囲に声をかける。
「おーい、子供たち。この者どもをヒモで縛り上げて馬小屋に放り込んでおけ。気がついたら飯でも食わせてやれ」
わらわらと子供たちが現れ、手際よく兵士たちを縛って運んでいった。
「どうするね、村長」
「逃亡兵は見つかれば死刑じゃ。軍に突き返すか、武器を捨てて民間人として出ていくか、本人たちに選ばせよう」
「それがよかろう」
「しかし、ここが陳家溝とも知らずに押し入ってくるとは、間抜けなやつらじゃ」
「まあ、かえって命拾いしたかもしれんぞ」
「違いない、はっはっは」
「ははは」
太児は胸を打たれていた。――これが“圧倒的な武力の差”というものなのか。
逃亡兵たちはおそらく誰一人ケガすらしていない。村にも被害はない。
村は今日も、平和な一日を終えようとしている。