この物語はすべてフィクションです。実在の人物を彷彿とさせるキャラクターがいたとしても、全くの偶然です。
第三話 湖畔で太極拳との出会いのこと
日曜日に、太児は家族と湖のほとりにあるキャンプ場に来ていた。
自転車でも来れる距離だが、今日はオートキャンプだ。
キャンプはお父さんの趣味だ。といっても、そんなに本格的なものでもない。もっぱらトイレや調理場のあるキャンプ場ばかりで、電気も通っていない山奥などには、いったことがない。
それでもお父さんに言わせると、防災訓練も兼ねているそうだ。
弟との水遊びや魚釣りにも飽きて、太児は一人、岸辺の林の中をぶらぶらと歩いていた。
風はない。むし暑い午後。
「つまんないな……」
樹の間からぽっかりと広がる湖面が見えた。湖の波は小さく穏やかだ。光が反射してきらきらと輝いている。水鳥がたくさん浮いている。
手前に、大きな平べったい岩がある。
その上で、人が動いていた。
アロハシャツにジーパン。裸足で岩の上に立ち、両手をゆっくりと広げていた。岩に生えた一本の木のようだった。
男が、空に向かって木の枝をゆるやかに振り上げ、ひらりと回って岩を切り裂いた…かのように見えた。
太児は思わず、息をのんだ。
木の枝が、湖の風に舞う鳥に見えた。速くはないが、滑らかで、力強く、一本の流れのような、風のような剣だった。
「……見―たーなー」
舞を終えると、男はこちらを向き、ニコリと笑った。
「……何をやってたんですか?」
男は、湖にむかって釣り竿を振り出しながら言った。
「太極拳だよ」
見た目は五十歳くらいだろうか。お父さんより少し上くらいに見えた。無精ひげ。
静かな湖のような気配があった。
太児も岩の上に座って、男と話した。名前は庵天(あんてん)だと教えてくれた。
庵天さんは、 釣ったばかりのマスを串刺しにして焼いてくれた。
「丸焼きに塩を降りかけるのが、うまいんだ」
「……おいしい」
「そうだろう? シンプルなのがいいよ」
庵天さんの言葉は、ゆっくりと響いた。
「さっきの……、太極拳って武道なんですか?」
太児が聞くと、庵天さんは静かに答えた。
「そうだよ。武術」
「あれが……? 健康体操じゃなくて?」
「はは、そう思われがちだな。でも本来の太極拳は、武術だよ。戦えるもんだ」
「戦うって……あんなに、のんびり動いて?」
庵天さんはニヤリと笑った。
「のんびりに見えるのは、君が武術を知らないからだよ。太極拳はね、地球と相手の力を借りるんだ」
「力を……借りる……?」
「強い奴に、力で張り合うのはスポーツだな。本物の武術は、自分の力を使わない。ゆっくりでも戦える」
その言葉に、太児の心はかすかに震えた。
「君は剣道をやってるな」
「えっ、どうして?」
「見てればわかるよ。でも、上手じゃないな」
「うっ…」
「やってみるか?」
「……え?」
「ちょっとがんばってみな」
庵天さんはそう言うと、太児の手首に軽く触れた。太児が引こうとした瞬間、ふわっと全身が浮き上がった。
「うわっ!」
太児が思わず声を上げたが、次の瞬間には、元の位置にストンとおろされた。
「な、なんでっ!? なにしたの?」
「何もしてないよ。君が勝手に動いただけ。痛くもなんともないだろう?」
「ええ??え?ええ?」
「これが太極拳さ。相手の力を借りて、無理なく動かす」
太児はしばらく口を開けていた。
「君、強くなりたいんだろ?」
庵天さんは、太児の目を見て言った。
「じゃあまず、バタバタしないで静けさを学びな。動く前に、止まることだ。本当の強さは、静けさの中にあるんだよ。静けさに合わせて、心を澄ませるんだ…」
木の葉がサワサワと鳴って、涼しくなった。