この物語はすべてフィクションです。
第二十九話 太児の父は庵天先生の教え子で春子の同期生だったこと
麦茶を飲みながら庵天先生が、なんとなくオドオドしながら、声を出した。
「ところでお前たち、倉庫の出来事は覚えているのか…?」
太児と拳児は顔を見合わせて、それからまっすぐに庵天先生の目を見ながら、太児が口を開いた。
「思い出したよ…。大変な夜だった」
「うん、思い出したら、ドキドキする…」と拳二。
美鈴が叫ぶ。
「やっぱり何か隠してたわね!」
晶がぴしゃりと言った。
「うちら死ぬところを助けてもろたんや」
テツが叫ぶ。
「なに~! 渦巻映画村にいっとったんけ!」
三人が叫んだ。
「ちがう! そうじゃない!」
晶が言った。
「テツ! まだらボケには早いんとちゃうか? うちらがヤバい組織におびき出されて、殺されかけた時に先生に助けてもらった話や」
「ああ、その節はえらい世話になったなあ。ホンマに死んどったかもしれん」
テツが頭を下げる。
美鈴が言った。
「何があったのよ。私だけ仲間外れなんてひどいわ」
「本当に忘れてたんだよ」と拳二。
庵天先生が割って入った。
「記憶喪失の催眠術をかけておいたからな。責めてやらないでくれ。どうも催眠術の効き目が悪くて思い出したようだ。どこまで思い出した?」
「先生と奥さんが実は秘密組織のエージェントで、悪者をやっつけて、葬り去ったところまで全部だよ。悪者たちを、細切れにして証拠隠滅したんだよね」
「あちゃー。あれは冗談だ。しかるべき機関に搬送した。もちろん全員生きている。お前たちが秘密を知って、国際的な陰謀に巻き込まれないようにと隠していたんだが、そうもいくまい。ある程度話しておこう。美鈴ちゃんも、いっしょに馬に乗った仲だ。聞いておいてくれ」
庵天先生が語った。
陳家溝で修行して帰国した後、国際的な情報組織からスカウトされて、協力することになったこと。
特殊工作員として危険な任務をいくつもこなしてきたこと。
諜報員養成所で教官となったこと。
妻の春子は養成所の教え子だったこと。
そして今、世界征服をもくろむ組織が、日本やその他の国々に静かに侵略して、平和を脅かしていることなど…。
「中国でも日本でも、よそ者扱いだった俺が、エージェントの仕事をすることで、居場所を見つけた感じだった。世界平和のために貢献する喜びを感じていたんだ。ただ、もう年だからな。このところは一線を退いて、後方支援に徹していた。太児に出会って、これからの人生は、武術を後世に伝える方で頑張りたいと思ったんだ」
あまりに壮大な話に、一同が絶句した。まさか現代の日本にそんな世界があったなんて。
「わかっていると思うが、口外無用だ。うっかり敵の組織の耳に入ったら、何をどう仕掛けられてくるかわかったもんじゃない。至る所に監視カメラや盗聴器が仕込まれている時代だからな。ここは安全だと確認できているから、話したんだ。家族にも話すなよ」
「そ、そ、そんな…。まるでマンガみたいな話…」と美鈴。
「うむ。いずれマンガ化したいと思うが、今のところ小説だ」と庵天先生が謎の言葉をつぶやく。
太児は、自分はお父さんに隠し通せるだろうかと、不安になった。
「今日の練習はお終い! また来週やるぞ。しっかり練習しておけよ」
包拳礼で挨拶をして、解散。
帰ろうとした庵天先生に、声を掛けてきた男がいた。
「庵天先生、ご無沙汰ですね」
「ん、誰だ?」
「あ、お父さん」
「あっ、太児のお父さんか。どうもお世話になっております…じゃなくて、太児君が太極拳を習いに来てくれて、楽しくやってます」
「どうもご挨拶が遅くなりまして…。太児、父さんは先生にご挨拶と、ちょっとお話があるので、先に帰っておいで」
「あ、う、うん。じゃあ帰っているね…」
庵天先生が自宅アパートに、お父さんを誘い、歩きながら話した。
「…侠眼こと柔侠太郎くん。夜の倉庫にいたのは君だな」
「やっぱりわかりましたか…」
「まさか君が、太児の父親だったとはなあ」
「いつからご存じだったのですか」
「太児に出会ったときに調べたよ。本人を見込んで、珠を託したんだが、君の子だったんでびっくりした。といって、こちらから迂闊に連絡を取るのもどうかと思ってな」
「そうでしたか…。先生には、親子ともども命を助けていただきましたね」
「君は、上海の失敗から始まって、何度か助けたなあ。シンガポールのアルカイダテロの時はマジで俺もヤバかった…」
侠太郎は深々と頭を下げた。
「今回は、いざとなったら君が動くつもりだったんだろう?」
「心配になってこっそりついていったんですが、まさか先生の技を見られるとは、思ってもいませんでしたよ。あいかわらず凄まじい」
「いや、もう老頭児(ロートル)だよ。君はあの後、「連環」は抜けたのか?」
「いちおう一般人に戻ったていですが、いまでも環の中にいますよ」
「そうだったのか。俺も組織の人員のことは知らないからなあ。…また君の出番が来るかもしれんよ」
「といいますと?」
「陳家溝に伝わる七珠伝承が現実味を帯びてきた。それを、C国政府が狙っているようだ…。その中心になるのは、おそらく太児に託した無記の珠だ。いま世界の混沌のど真ん中にいるのが太児ってことになるかもしれない」
お父さんが「ええッ」という顔をする。
「俺の推測だが…七珠は、ただの象徴じゃない。七珠は戦乱と秩序の交差点に現れるんだ。ヤクザの抗争、共産党の弾圧、革命、戦争など…。歴史の陰に、珠が関わっている…んじゃないかなあ」
庵天先生が自信なさそうに言った。
「そして、珠には過去と現代を行ったり来たりする力がある。もしかすると、未来も…。太児に渡ったのをキッカケに、珠が活動を再開させたのかもしれん」
アパートに着いた。
「お久しぶりです。白蓮こと、春子さん」
「侠眼! 倉庫にいたのはあなただったのね」
「なんとも、ひょんなご縁で」
「私と同期だったわね。あなたは優秀なエージェントだったわ。前線から退いちゃったのね」
「あのおかげで、今の人生が手に入りました」
「そう…。その方が幸せよね。私たちには子供もいないし…」
少し寂しそうに春子が言った。
庵天先生が言う。
「まあ、今は太児達が俺たちの子供みたいなもんだ」
「そうね…。あの子たちと話すのは楽しいわ。奥さんとはどこで?」
「妻と結婚したのは、連環を離れて一般人になってからです。私の裏の仕事のことは知りません。いい妻です。音大卒でピアノが上手ですよ。私はジャズマニアだったのですが、クラシック好きになりました。太児もピアノが上手です」
「うん。文化祭の時に聞かせてもらった。音楽の才能もあるなあ。太極拳にも才能があるし文武両道だ。君は剣術がピカイチだったな」
「太児は剣道は苦手でしたが、太極拳が性に合ったようですね。不思議なものです」
庵天先生が、冷蔵庫から缶ビールを、金庫から布袋を取り出して、侠太郎に見せた。
「ま…ビールでも飲みながら…。さて、これが連中が狙っていた「戢兵」の珠だ。晶ちゃんの父親が、たまたまチンピラから取り上げたらしい。なんで、そこらのチンピラが持っていたのかも謎だ」
「どこからか盗まれて流れたのかもしれませんね。出所を調べる必要がありそうです」
「伝説通りなら、他にまだ5つもあることになる」
「『禁暴』は共産党が管理しているという情報があります。陳発科から長男の陳照旭に託されたものが、革命時に押収されたとか」
「陳照旭が射殺された時だな。さぞかし無念だったろうな。陳発科は誰から託されたのだろう? 伝承と一緒に受け継がれたのだろうか?」
「そのような文献はないし、謎ですね。そもそも7つの珠の存在自体、怪しいですしねえ」
「俺が太児に託した無記の珠も、そのうちの一つかもしれないと思っているんだが…。どう思う?」
庵天先生が、机の上に小さな木袋を置いたまま、腕を組んで目を閉じた。
「無記の珠…。名のとおり、記されず、定められず。空(くう)を象徴しているのかもしれん。七徳を束ねる中心、だが、形を持たぬ徳…」
侠太郎がうなずいた。
「空ですか。仏教的ですね。」
「仏教だと色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。太極拳の極意は、無極から太極だ。無記の珠は、他の珠を導くのかもしれない」
「導く…?」
「そう。無記の珠が中心となり、7つの珠が集まり混じり合う。まるで太極図のようにな。太児が持っているということは、彼自身が秩序と混沌の均衡点なのかもしれん」
侠太郎がしばし沈黙した。
窓の外では、秋の虫の声がかすかに響いていた。
「……先生。もし、太児が中心だとすれば、あの子を守らねばなりませんね」
「ああ。だが守るだけではダメだ。あの子自身が、源に立たないとな。手を出しすぎると、かえって環が乱れる」
庵天先生は、静かに笑って言った。
「…とはいっても、まだ小学生だ。我々が守らねば。…あのころの君は短気だったが、今はすっかり父親の顔だな」
「ええ。でも、父親の顔の下には、まだ剣士がいるつもりです。もし太児が巻き込まれるなら、私も動きます」
「もちろん、俺も動くよ。連環も動くだろう。珠と世界が連動していくだろうからな」
春子が、湯掻いた枝豆の皿をちゃぶ台に置いて、言った。
「太児君には、ちゃんと普通の明日を生きてほしいわ」
庵天先生が、静かに答えた。
「そうだな。普通の日常の中にこそ、武の心が宿る」
しばらく三人で話し、ビールも飲み干し、侠太郎は、深く一礼した。
「先生。ありがとうございました。今後もご指導お願いします。私は父親として、見守っていきます」
「ああ。俺たちの役目は、陰から世を支え、次の世代を照らすことだ…」