この物語はすべてフィクションです。
第十四話 拳と琴のこと
夕方の練習の後、太児はピアノに向かう。
新しく始めたのはドビュッシーのアラベスク第1番。
昔から聞き馴染みのある美しい旋律だ。右手と左手の別々のメロディが絡み合ったり、同調して刻んだり、変化に富むところが、陰陽の変化のようだ。
窓から美鈴がのぞき込んできた。
さっきまで一緒に公園で練習していたが、シャワーを浴びてきたようで、トレーニングウェアから、涼しげなアロハシャツに着替えて、こざっぱりしている。
「私、太児のピアノ、好きよ」
「えっ、今更、なんだよ」
「太児は、武術より音楽の方が似合うと思うけどなあ」
「男がピアノなんて、なんだか弱っちくみられそうで嫌なんだよ。ハードロックとかならいいけど」
「ハードロックは興味ないわ。男のピアニスト、ステキじゃない。全然弱いことなんてないわよ」
「そうかなあ。学校で知られたら、冷やかされるよ。美鈴が聴いてくれてたら、それでいいよ」
「もっと自信を持ってよ。それも強さじゃない?」
「そうかなあ…」
夜、太児は静かに寝ている。
窓から入ってくる柔らかな月明かりが、枕元に置いていた木玉を照らす。
木玉が青白く光った。
やがて、ぽろん……と古風な音色が流れ込んできた。
瑠璃瓦の屋根と朱塗りの回廊が、月の光を受けて柔らかく輝いている。
池のほとり、柳の枝が風に揺れる陰に、白髪の老人が腰を下ろしていた。
衣は淡い青の長衣で、落ち着いた気配を纏っている。
彼の前には古びた七弦琴が置かれ、皺の深い指先がゆるやかに弦をはじく。
澄み渡る音色が、池の水面に広がっていく。その旋律には、長い歳月を生き抜いた者だけが奏でられる深い哀愁と、天地を包み込むような安らぎがあった。
「久しぶりだなあ、太児」
弦を爪弾きながら、老人が微笑んで語りかけてきた。
「え? 久しぶりって……誰?」
太児がおそるおそる尋ねる。
「楊露禅じゃ」
「えっ、楊君? …のおじいさん?」
「おじいさんじゃない、本人じゃ。昔、陳家溝でいっしょに稽古してたろう」
「ええっ、この前、会ったじゃない??」
「ふふふ。それは、少年時代のわしだろう。年老いたわしにとっては、久しぶりという意味じゃ」
太児は首をかしげた。
「どういうこと、違う時代に来たってこと?」
「そうじゃ。夢の中では時の流れなぞ自由自在。太児は陳王廷にも会ったじゃろう? 歴史の壁も、寿命も越えられるのじゃ。便利じゃろ?」
楊露禅は微笑んで、琴の弦を軽くはじいた。
その音は波紋のように広がり、庭の空気を震わせた。
「楊君、お琴なんて弾けたんだね」
「ああ、けっこう評判がいいぞ。わしの琴のコンサートは、だいたい満席じゃ」
「ええっ、意外。……でもさ、男がピアノとか琴とかって、なんか女々しいっていうか、恥ずかしくない?」
楊露禅の手は止めず、笑みを浮かべた。
「太児や。太極拳の名人には、琴の名手が多かったのを知らんのか? 弦を奏でる手と、拳を繰り出す手は同じもの。音を制するは、力を制するに通じる」
「……え?」
「楽器の演奏は、姿勢、呼吸、指先の精妙な力加減、すべて武術と相性がいい。速くも遅くもでき、強くも弱くもできる。太極拳そのものじゃ」
太児は、庭に響く琴の余韻を聞きながら、手足の先までその振動が伝わってくるように感じた。相手の力を受け、返す感覚に似ていた。
「おじいちゃんになっちゃって、まだ武術はできるの?」
「おっほほ、舐められたもんだな。ワシは今が強さのピークじゃ」
「ええっ、本当に?」
「陳家溝から出て故郷に帰った頃は、楊無敵などと持ち上げられたもんじゃが、その時より今の方が強いな。無駄な力がどんどんなくなって、残ったのは、本当の勁だけになったのじゃ。王宮での指導で、すっかりおとなしい武術になっちまったがのう」
「王宮って、王様に教えたの?」
「王族の子弟達の体育と教養のためにの。故郷に帰って最初は地元の警察で指導しておったんじゃが、王宮の教師に推薦されての。ワシの方は教養のために琴を覚えた」
「楊君、偉くなったんだねえ~」
「偉くなったわけでもないが、いろんな苦労が報われて、幸せに過ごしておる。太児もあれこれ悩まんと、今をしっかり生きておればよい」
露禅は、最後にひときわ澄んだ音を響かせ、静かに手を下ろした。
「柳は風に揺れ、琴は心に揺れる…」
…庭は霞のように消え、太児は布団の中で目を覚ました。
耳の奥には、まだ琴の音が残っていた。
(この物語はフィクションです。楊露禅が琴の名手だったとの逸話はありません)