この物語はすべてフィクションです。似た人がいたとしても別人です。偶然の一致です。
第十話 虚像と推手と老子のこと
体育館には、美しく迫力あるポスターが貼られ、色とりどりの中国風の表演服を着た人が行きかう。カンフー服や剣や本を売るショップも大いに賑わっていた。
太児は胸が高鳴った。
(これが中国武術の大会か……!)
太児と美鈴と拳二は、庵天先生に勧められて、中国武術の大会を見に来ていた。
庵天先生は「たまにはフィクションもいいだろう。楽しんできな」と、謎めいたことを言っていた。
「知り合いの東山先生に連絡しておくよ。話を聞いてきたらいい」
何百人もの武術の選手が集まり、鍛え上げられた技が披露されると聞く。期待で、胸の奥がむずむずする。頭の中ではカンフー映画の音楽が流れていた。
ちなみに拳二の頭の中には、映画「少林寺」のテーマソング。
太児は「燃えよドラゴン」。
美鈴は「セーラームーン」のテーマであった。
アリーナに入った瞬間、まばゆい光と音楽が押し寄せた。
広い会場いっぱいに、色とりどりの衣装をまとった選手たちが舞う。
紅、藍、金、翡翠色。剣は銀の光を放ち、槍の穂先は弧を描いて空を切る。
観客席からは拍手と歓声。
美鈴は目を丸くした。
「わあ。オリンピックの体操みたいね……!」
拳二もびっくりしている。
「少林寺拳法でも、こんなにぴょんぴょん飛ばないもんな」
「東山先生に会えといわれたが、どこかな?」
受付に聞くと、受付横で立っていたのが東山先生だった。太児達を待ってくれていたらしい。
「君が太児君じゃな。庵天君から聞いているよ。今日はワシがスペシャルな案内をしてやろう」
東山先生は日本カンフー太極拳連合会の創立時のメンバーの一人だそうだが、すでに引退されている。
髪の毛は真っ白で、姿勢が良く、背が高く見える。色褪せた太極マークの入った、ヨレたジャージを着ていた。
東山先生は、アリーナを囲む観客席の一番上の席に太児達を案内し、今日のプログラムや、出場する武術を一通り説明した後、ため息をついた。
「こんなのは…見て楽しむだけにしておくことじゃ」
「……え?」
突拍子もない言葉に太児はまばたきする。
先生は口元をゆるめて笑っていたが、その奥には寂しさが潜んでいた。
「君たちから見れば、カッコいいじゃろう。見た目は派手だし、音楽も華やか。じゃがのう、形ばかりで、中は空っぽじゃ。君達が庵天君の紹介で来たから言うんじゃが…」
東山先生は、辺りをきょろきょろと見まわした。
「他のもんには内緒じゃ」
ステージでは、若い選手が空中で二回転し、どよめきが起きる。
「花拳繍腿(かけんしゅうたい)という言葉があってのう。華のように突き、にしきのように蹴るという、褒めたたえるようで、実はバカにした言い表しじゃ。蝶のように舞い、蜂のように刺すモハメド・アリとは違うのじゃ。アリなのにハチとは、これいかに」
ここは感心すべきなのか、笑うべきなのか、若い3人には計りかねる。
「昔はのう、推手ができねば太極拳を学んだとは言えんかったもんじゃが、今は、誰も手を取らん。評価されるのは見せかけの派手さばかりじゃ」
選手が着地に失敗したのか、膝を押さえ、苦しそうに退場していく。
「本場の中国では、若い選手が無理な動きで体を壊せば、また次の若者に替える。競技人口が多いからできることじゃが、まるで消耗品。ショーモーないことじゃ」
東山先生のダジャレが太児の胸に重く沈んだ。
「武術はエリート選手を育てるためのもんじゃない。大切なのは人間の育成じゃ。パフォーマンスのために体を潰してたら、何をやってるのかわからん」
フーっと息を吐いて、しばらく沈黙。
「老子は、強きは必ず弱しと言った。太極拳は、やわらかく、長く、誰もが続けられる道のはずじゃ。それが今は……」
先生は目を細め、ステージを見つめ続けた。
「……水のように生きる道を、いつの間にか、花火のように消える道に変えてしまった」
そして、ふっと笑みを戻した。
「花火はきれいじゃが、花火拳にはならんようにの」
「……花火拳?」
「パッと咲いて、パッと散る。残るのは煙と灰。そんなのは太極拳とはいえんのじゃ」
太児は笑った。けれど、その笑いの奥に、少しの苦みがあった。
拍手の音が、なぜか遠くで鳴っているように聞こえた。
大会の熱気を背に、東山先生は太児達を人気のないサブアリーナに連れていった。
がらんとして、試合のざわめきが遠くにこだまする。
窓から射し込む午後の日差しが、床に四角い光を落としていた。
「さて、君たち。推手は、やったことあるかの?」
「……ないです」
「じゃあ、やってみようかの」
東山先生が両手を胸の前に上げ、ゆっくりと差し出す手の甲を太児に向けた。
太児もおそるおそる両手を合わせる。先生の手は、思ったよりも温かく、やわらかかった。
「じゃあ、押してみよ」
太児は軽く押した…つもりだった。
次の瞬間、自分の足がふわりと床から離れ、二歩、三歩と後ろに下がっていた。
「えっ!? どうして?」
東山先生は笑っている。手には力がこもっていないのに、動きは川の流れのように自然だった。太児は初めて庵天先生に会った時のことを思い出した。
「もう一回。もっと元気よく行こうかの」
太児が力いっぱい押すと、先生の手がゆっくり円を描いた。
その小さな円の中で、力が勝手に方向を変え、バランスが崩れ、
「うわっ!」
気がつけば、太児は床の上を転がっていた。
「ほいっ!」
東山先生が、円を反対方向に回すと、太児は動画の逆回しのように、元の位置に立たされていた。
「これが推手じゃ。力で勝つんじゃない。相手の力を受け入れて、流れを変えるのじゃ」
先生は太児の手をそっと放し、体育館の外の風を見やった。
「太児くんや、自分の中の恐れに気づいたことはあるかの?」
「……恐れ?」
「たとえば、負けるのが怖い。痛いのが怖い。バカにされるのが怖い、恥をかきたくない、恥をかかせたくもない、怒らせたくない、悲しませたくもない、そんな自分を認めたくない、そんな気持ちが、力んでしまう原因じゃよ」
太児の胸がズキンとした。
(そうだ……ぼく、いつも怖かった)
人に笑われるのが怖い。ドジって恥ずかしいのが怖い。誰かの期待に応えられないのが怖い。
それでいつも、体も心も、ガチガチになっていた。
「太児くん。弱さは捨てなくていい。認めるんじゃ。それが、柔らかさのはじまりじゃ」
太児は両手を見つめた。
「老子は言った。上善は水の如し。水は争わない。じゃが、石をも穿つ」
自分の中に、川の流れがある気がした。
花火のように一瞬で消えるものじゃなく、静かで、でもどこまでも続く流れ…。
「太児くん、見た目よりも、中にある流れの感じを大切にするのじゃ…」
東山先生の声が、ゆっくりと胸に染み込んでいった。
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ありがとうございます。
くれぐれも申し上げますが、この物語はフィクションです。