太極拳に限らず、武術や格闘技は、言葉でできているのだなあと、ひらめいたのです。
言葉がないと武術はなし。
高度な戦闘能力を持つライオンやら熊やらオオカミ達、その能力は生まれ持った本能、性能によるものであって、能力の向上は実戦経験でしか磨かれず、戦闘前に型の練習などはしません。
向上した能力は、その個体だけのものであり、得た技を仲間に教えたり、伝承したりはできないと思うのです。(もしかしたらそんな動物もあるかもしれませんが)
人間は言葉を持っているので、人体の動きを研究し、戦闘向けの体の使い方を構築し、練習し、記憶し、実戦経験で改善、洗練され、伝承することができます。
練習は、究極的には、意識すなわち言葉なしでも動物のように体が自動的に動く境地を目指して行うものですが、言葉が無ければ技術は習得できず、改善もできず、伝達もできません。
言葉があるからこそ、何百年もの経験や研究の積み重ねが伝承され続けてきたのであります。
太極拳は特に、言葉の重要度が高いのではないかと思います。
力の種類を、こんなに多く区別している武術は、なかなかありますまい。というか、力を区別するという考え方自体、多くの武術には存在していないのではないでしょうか。
言葉による区別がないので、「力」という言葉では表しきれない感覚を、代替用語として「気」とかなんとか言っているのではなかろうかと。合気道とか。
太極拳には、力を区別する言葉がたくさんあります。
勁と拙力で大まかに分けられます。
勁のイメージを表した言葉が纏絲勁です。
勁のレベルを拙勁と巧勁で区別し、勁の方向性を表した言葉には掤・捋・擠・按・採・挒・肘・靠があり、勁の作用や現象、感覚などを表した言葉には、聴勁、化勁、蓄勁、発勁、抖勁、沈墜勁、整勁、懂勁、折畳勁、霑黏勁、抜根勁、開合勁、捲勁、腰勁、胯勁、胸勁、跳勁、寸勁、零勁、蔵勁、十字勁、凌空勁などなど、山のようにあります。
日本語に翻訳するとしたら、一つ一つが長文になるし、文章にしたところで、いまひとつピタッとしたイメージと重なりません。(安田先生やN先生もそんなかんじのことは言っておられました)
言葉そのものに感覚の閃きが必要です。
これらの言葉なしでは、太極拳の技術を理解することは困難です。身体的センスだけで習得は無理。
ある程度は、感覚だけでも推手らしきことはできますけど、ハイレベルに至るには言葉が必要です。
幼稚な殴り合いから洗練されたボクシングになるにも、言葉が必要でしょう。
究極的には、言葉も意識もすっぽ抜けた状態で相手が宙を舞っている、というのが達人の域だと思いますけど、習得過程にはどうしても言葉が要ります。
長年太極拳をやっていて、形はそれなりにキレイに見え、大会でメダルを取れるような人でも、実のところ太極拳になっていない人は、たくさん見受けられます。
それは、言葉を知らない、または言葉に閃きがないからじゃなかろうか。
勉強が足りないのか、先生も知らないんですね。たぶん。
勘違いした言葉ばっかり覚えて練習しないのでは、ウンチク親父になって問題ですが。練習しないと言葉と感覚がつながりません。
私の教室では、基本功ばかりで、言葉の説明はさほどしてきませんでしたが、もうぼちぼち言葉の説明もしていく段階かなあなどと、思ったりしたのでありました。私も鋭意勉強中です。
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