小説「太児」第八十八話

この物語はすべてフィクションです。

第八十八話 太児が死地を経て恐れを知り 春子が天命を説いて心を解くこと

アパートの台所は昭和の家庭の雰囲気だったが、地下設備のキッチンはシンプルで味気ないデザインだ。

学校の家庭科室の調理台を思わせる。

遅い夕食は、非常食のレトルトカレー、イワシの缶詰にインスタント味噌汁。

「なんだよう、この組み合わせ。イノシシ肉のバーベキューが食いたいよなあ」

拳二がカレーをかき込みながら言う。

「お土産のビーフジャーキーやったらあるで」

いつもの楽しい合宿の雰囲気だったが、太児は食欲がでなかった。

つい数十分前に、自分は人間を投げ飛ばした。

相手は拳銃を持っていた。

もし、ほんの一瞬遅れていたら撃たれていたかもしれない。

自分ではなくても、誰かが撃たれたかもしれない。

遅れて湧いてきた恐怖で体が震えた。

「太児くん」

春子は立ち上がった。

「外の空気でも、吸いましょう」

二人は地下から出た。

遠くで虫が鳴いている。

爆破事件から工作員の回収まで、騒動があったとは思えない静けさ。

街灯の光が薄暗い。

丘の端のベンチに、春子は腰を下ろした。

暗い湖が見える。

太児も、その隣に座る。

「怖かった?」

突然、春子が聞いた。

「…うん…訓練とは違うよね」

「当然よ」

「敵は、本当に僕を撃つつもりだったんだね…」

「そうでしょうね」

太児は自分の手を見た。

少し震えていた。

「その時は、怖くなかった…拳銃を向けられても、あ、この角度ならいけるな、とか考えてて」

「ふふ」

「終わってから怖くなってきた…」

春子は微笑んだ。

「正常よ」

「そうなの?」

「怖くならない方が危ないわ」

春子は夜空を見上げた。

「恐怖を感じない人間は、どこか壊れているのよ。本当に強い人は、怖さを知っている。痛みも知っている。死にたくないって思っている。悲しむ人のことも考える」

父や母の顔が思い浮かぶ。

「それでも、必要な時に動ける人が強い人よ」

太児は目を開けた。

「春子さんは?」

「私だって怖いわ。昔は、死ぬのなんて怖くないと思っていた時期もあったけどね」

しばらく二人で虫の声を聞いた。

「僕、ずっと考えてたんだけど…」

「天命のことね」

太児は驚いた。

「分かるの?」

春子がにっこりと笑った。

「聴勁よ」

「さすが…」

「冗談よ。前にちょっと言ってたじゃない? ピンと来るわよ」

「あ、そうか」

太児が頭を掻く。

「今日の人たちも…C国から命令されて来たんだよね」

「そうでしょうね」

「田さんも昔はそうだったけど、今はトニーさんのところにいる…田さんの運命って、決まってなかったってこと?」

「どうして?」

「だって、中国の工作員として生きて死ぬはずだったのに、今は違う人生を生きてる」

春子は少し考えた。

「太児君は、天命を、決められた未来だと思っている?」

「違うの?」

「天命とは…天から与えられた命令って意味ではあるけどね」

「神様に命令されるの?」

「西洋的な発想だとそうね。でも、それに反抗する思想も生まれたわ。人間が世界を支配するんだ、みたいな…」

「東洋は違うの?」

「子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず」

「論語だね」

「孔子は、命令に従いも逆らいもせず、天命を知ることで自由に生きる境地に至った、ってことじゃないかしらね。私はそう思うんだけど」

「それじゃあ、やっぱり天命って、最初から決まってるってことじゃない?」

「何をなすべきなのかを知って、そのように生きることが幸せってことじゃないかしら」

「幸せ…?」

「老子は無為自然を説いたわ。道(タオ)は…人間の価値判断を超えた大きな自然の働きに従って生きるってこと。自分には重大な使命がある!…なーんて力むんじゃなくて、自然に自分の進むべきところが見えてくるのね」

「じゃあ、何もしなくてもいいってこと?」

「何もしないんじゃなくて、合わせるのよ。太極拳の捨己従人にも通ずるわね…太極拳は老子の思想から大きな影響を受けているわ」

「そうか…前に庵天先生にも習ったような…」

「お釈迦様は、また違うわね。今の人生は因縁・因果・業(カルマ)、無数の原因と条件によって今があり、今の行いによって未来は変化する」

「じゃあ、田さんがトニーさんに捕まって人生が変わったのも、因果なのかなあ」

「そうかもしれない。でも、因果なんてわかるものじゃないわ。だから、答えを求めることに執着しないの。執着を捨てると苦しみがなくなるって、お釈迦様は説いたのよ」

「難しいね…」

「日本的な武士道、茶道、華道、書道とかの「道」は、型に始まり、技術と自分自身を磨き高めていく道程よ。がんじがらめに見えるけど、その中に自由があるのよ」

「それが天命で、幸せになれるってこと?」

「考え込んでもわからないかもね。感じるのよ」

「うーん、ドントシンク、フィール、ってことか…」

「そういうこと。でも、考えることをやめろって意味じゃないわよ。孔子も老子も釈迦も考え抜いて、それを何千年も、またいろんな人が考えてきたのよ。たぶんね。しらんけど」

春子は笑い、太児も笑った。

手はもう震えていなかった。

湖から涼しい風が吹き、波の音と秋の虫の声が聞こえてきた。

コメント