この物語はすべてフィクションです。
第八十六話 晶女傑が射場に腕を示し 飛天の刺客が連環を襲うこと
政府非公式組織「連環」の源流には、旧陸軍中野学校があるという。
大日本帝国の諜報員養成機関だった陸軍中野学校は、敗戦とともにその歴史を閉じた。
だが、人まで消えたわけではない。
中野学校で諜報、防諜、謀略、宣伝、語学などを叩き込まれた者たちは、戦後、それぞれの場所へ散っていった。
警察の公安部門。
防衛庁――現在の防衛省――の情報部門。
そして、内閣周辺の情報組織。
そうした戦後日本のインテリジェンスを陰から支えた者の中に、中野学校出身者がいたともいわれている。
終戦時、中国や東南アジアなどに残された者の中には、日本人の引き揚げ支援や現地勢力への協力、共産勢力・反共勢力とも関わったらしい。
消えてなお、世界に影響を与えた組織だった。
「連環」は、その末裔だと囁かれている。
ただし、はっきりとした系譜が残されているわけではない。
謎の組織だった。
そして、その輪の中に太児たちはいた。
庵天が不在のアパートでは、夜な夜な妙な授業が開かれていた。
講師は春子。
最初は近現代史だった。
だが、学校で習う歴史とはまるで違う。
ひとつの戦争が、なぜ起きたのか。
その裏で誰が金を動かし、誰が情報を流し、誰が嘘をつき、誰が得をしたのか。
教科書には載らない、生々しい歴史だった。
第二次世界大戦の終結から八十年。
世界は再び、大きく揺れている。
中東では、二千年続く宗教、民族、領土、国家の思惑が幾重にも絡み合い、憎悪の連鎖が炎となって周辺へ広がっていた。
覇権主義から抜け出せないロシアと中華人民共和国は、これまでに幾度も繰り返してきた過ちを、またも繰り返し、かつて味わった滅亡の危機に、再び瀕しようとしている。
戦車が泥沼を進み、ドローンが兵士を爆殺する。海峡の封鎖。要人暗殺。サイバーテロ。ミサイルの乱発。宇宙の軍事化。反対派は粛正、国民の目と耳と口をふさぐ。
圧倒的な経済力と軍事力にものを言わせ、剛腕で世界をリードしてきたアメリカ合衆国も、もう世界中の面倒を見切れなくなっている。
昨日の敵が、今日の取引相手になる。
昨日の友が、明日の敵になる。
経済は国境を越えて結びついているのに、国家は互いを疑っている。
そして情報の世界では、真実と嘘の境界そのものが曖昧になりつつあった。
映像があるから真実とは限らない。
専門家が語るから正しいとも限らない。
何を信じればいいのか。
誰を信じればいいのか。
その判断すら、一つの戦いになっていた。
敗戦後、長く偽りの平和の中で腑抜けていた日本も、その外側にはいられない。
むしろ今、日本が培ってきた独特の価値観や立ち位置を必要とする国が現れ始めているのだと、春子は言った。
世界は転機を迎えている。
世界の指導者たちは、天の意志により動かされているのだろうか…と、太児は思った。
指導者が変われば、世界の流れも変わるのか。
それとも国家には国家の天命があり、為政者たちは自分の意志で歴史を動かしているつもりで、実は巨大な流れに運ばれているだけなのか。
春子による、諜報講座。
暗号。尾行。盗聴。変装。潜入。
時には、どこにあるのかさえ教えられない施設へ連れて行かれた。
窓のない車に乗せられ、着いた先には所属も名前も明かさない男たちが待っていた。
匍匐前進。格闘。降下訓練。危険物への対処。
拳二は、そのたびに呟いた。
「自衛隊レンジャーかよ……」
敵地での潜伏を想定したサバイバル訓練まで経験すると、以前みんなで行った湖畔のキャンプ場など天国に思えた。
「虫が出るー!」
「トイレ汚いー!」
などと女子が騒いでいた場所が、今となっては高級リゾートだ。
そうした訓練に参加するのは、主に拳二と太児だったが、アパート地下の射撃場には美鈴も加わっていた。
「今なら屋台の射的、百発百中じゃない?」
美鈴が笑った。
「出禁確定だろ」
拳二が言う。
太児が笑っていると、地下へ続く階段から、よく通る声が降ってきた。
「屋台は実弾禁止やでー!」
「あ、晶ちゃん!」
ジーパンに革ジャン姿の晶が、笑いながら姿を現した。
「みんな久しぶりやなあ。元気やった?」
「おかげさんで」
拳二たちはゴーグルとイヤーマフを外した。
晶は拳二からイヤーマフを受け取ると、射撃台の拳銃へ目をやった。
Glock 17。
オーストリア製の9ミリ拳銃。軽量、高耐久、高信頼性。今や世界中の警察と軍で使われている定番モデルだ。
「弾、残ってんの?」
「ああ、あと三発」
晶は何も言わず、標的へ銃口を向けた。
パンッ!
乾いた破裂音が地下室に弾ける。
十メートル先の人型ターゲットの額に、黒い穴が開いた。
パンッ!
パンッ!
連続して二発。
ほぼ同じ場所。
「うわ……」
美鈴が引いたように呟く。
晶は構えを解かない。
パンッ!
四発目。
「……あれ?」
拳二が間抜けな声を出した。
晶が笑う。
「拳ちゃん」
「はい」
「数え間違ってんで。数え間違いは命取りや」
拳二は真顔で頭を下げた。
「気をつけます……」
ちなみに Glock 17 の装弾数は17発。「17」は装弾数ではなく設計番号だ。
使用弾薬は 9×19mm Parabellum。
Parabellum。
その言葉は、ラテン語の警句に由来する。
Si vis pacem, para bellum.
――平和を望むなら、戦いに備えよ。
地下射撃場に、火薬の匂いがゆっくりと漂った。
「太児、なんか、シュッとしたなあ」
晶が太児をしげしげと眺めて言う。
「そうなのよ。レンジャー訓練で筋肉質になったのよね」
なぜか美鈴が自慢そうに言う。
「晶ちゃんも、なんだかカッコ良くなったね」
太児が感心して言う。
「せやろ?」
晶が革ジャンの襟をつまむ。
拳二は納得していない顔だった。
「いや、それよりお前さ。商売人を目指してるんだろ。なんでそんなに銃が上手いんだよ」
「そら、チビッ子の時から射的で鍛えてたもん」
「コルク鉄砲と実弾は全然違うだろ……」
晶は、ふふっと笑った。
「ホンマいうたら、もちろん訓練してんねん」
「やっぱりか」
「海外行っても怠れへんで。国際ビジネスは危険がいっぱいや。丸腰で商売できる時代は終わったわ」
「ほーう……」
三人が揃って感心する。
晶は射撃台に腰を預けた。
「今な、世界情勢がものすごい勢いで変わっとる。日本も無関係やない。なんか手ぇ打っとかへんと、経済までガタガタになるで」
いつもの晶とは、少し声が違った。
「もう国内の商店街を活性化するとか、それだけ考えてても間に合わへん。うちは今、世界を股にかけて動いとる。若いとか女やとか、そんなもん関係あらへん」
晶は指を折っていく。
「経済人。政府関係者。軍関係者。それから、表に出てこん連中。何でも知っとかなあかんねん」
「裏社会?」
美鈴が聞いた。
「そういう世界も含めてや。誰が誰とつながってるか知らんかったら、商売なんかできへん時代になってきた」
三人が唸った。
「それもインテリジェンスね」
声がした。
春子が階段を下りてきた。
いつもの割烹着ではない。
ポケットの多いタクティカルパンツに黒いタートルネック。
春子は撃ち終えたターゲットを見る。
額の中央に小さな穴が重なっている。
「……腕、上がっているわね」
「我が身を守れるんは、結局のところ自分自身や」
春子は射撃台に手を置いた。
「そうね。でも、これからは企業もそれだけじゃ生き残れない」
全員が春子を見る。
「物流、通信、半導体、エネルギー、食料――今はもう、経済と安全保障を切り離して考えることができないの」
「ニュースでも最近、そんな話ばっかりだよね」
美鈴が言った。
うーん、と三人が唸る。
「ええ。でもマスコミは肝心な部分を言わない」
春子は人差し指を立てた。
「国家は情報でも戦うの。世論を動かす。相手国の判断を誤らせる。社会の分断を広げる。自国に都合のいい情報を流す。逆に、不都合な情報を埋もれさせる。敵国に汚染されて、敵のプロバガンダに利用されているようなマヌケなメディアは、追放されるでしょうね」
拳二が眉を寄せた。
「情報そのものが武器ってことか」
「そう」
春子は即答した。
「平時なら、軍事力を直接使うより、経済力とインテリジェンスのほうが使いやすい。表面上は平和でも、水面下では各国がずっと競争しているのよ」
「スパイ映画みたいだな……」
拳二が呟いた。
春子は微笑まなかった。
「映画のほうが、まだ平和よ」
誰も笑わなかった。
晶が弾倉を抜き、射撃台に置いた。
カチリ。
小さな金属音が、妙に大きく響く。
「日本人は平和ボケに慣れすぎたんや。世界じゃ、会社員とか研究者とか工作員とか、そんな境界が見えへんこともある。技術者の引き抜き、機密データの流出、企業買収、ハニートラップ、SNSを使った世論誘導…なんでもやってるで。中国なんか、法律で全国民がスパイの義務が課せられてる。銃撃戦だけが戦争ちゃうで」
晶は少し間を置いた。
「港ひとつ止まっただけでも、物は届かんようになる。エネルギーが止まれば工場も止まる。半導体が来えへんかったら、作れん物が山ほどある」
太児は黙って聞いていた。
学校で習ってきた世界とは、別物だった。いや、自分たちが見ていなかっただけなのか…
春子が太児を見る。
「太児くん」
「はい?」
「前に、天命って言葉を口にしていたわね」
「え? ……はい」
「国家にも、人にも、流れはあるわ」
春子は静かに言った。
「でもね――」
一拍。
「流されているだけではダメ」
太児は春子を見つめる。
「流れに沿って、自分で泳ぐのよ」
地下射撃場の換気ファンが、低く唸っていた。
晶が笑った。
「うちも泳いでるで」
拳二が苦笑する。
「サメに食われるなよ」
美鈴が言った。
「私たちはイルカの群れよね」
「なんでイルカなんだよ」
「かわいいから」
その時だった。
ピリリリリリ――!
鋭い警報音が地下室を切り裂いた。
四人の表情が変わる。
春子が壁際の端末へ向かった。
画面を見る。
「……来たわね」
「何が?」
拳二が聞く。
春子は数秒間、画面を凝視して、言った。
「飛翔物が、このアパートに向かっているわ」
ボン!
腹の底まで響く爆発音。
天井が震えた。
壁の内部から、ビリビリと不気味な振動が伝わってくる。
美鈴が息を呑む。
「な、何!?」
モニターの映像が切り替わった。
アパートの全景。
モニターが、アパートの全景を映した。このアパートには、監視カメラが設置されている。泥棒の抑止を狙ったものではない。隠しカメラだ。
二階の窓が吹き飛んでいる。
煙が夜空へ流れていた。
春子がそれを見て言う。
「あらら。アパートの窓が吹き飛んじゃったわ」
「ミサイル?」
「おそらくドローン攻撃ね」
春子の声は落ち着いていた。
美鈴が青ざめる。
「春子さんを爆殺しに?」
「その可能性はあるわね」
「あるわね、って……」
「このところ不穏な情報が入っていたから、しばらく地下設備のほうで寝ていたの」
拳二が天井を見る。
「上にいたらヤバかったじゃん」
「ええ」
春子は端末を操作する。
別の監視映像が次々と表示された。
路地。裏口。非常階段。屋上。
そして人影。
一人。二人。三人…
闇の中を、アパートへ向かって移動している。
さっきまでの空気が消えた。
訓練ではない。
全員が、それを理解した。
春子が振り返る。
「全員戦闘準備」
誰も冗談を言わなかった。
防護装備を身につけ、ヘルメットを被る。
拳二の顔から、いつもの軽薄さが消えていた。
太児は自分の心臓が激しく打っているのを感じた。
これまで何度も訓練してきた。
走って、這って、殴られ、撃って、ゲロを吐いてきた。
全部、訓練だった。今までは。
モニターの隅で、人影が止まった。
「来たわ」
晶が画面を見る。
美鈴が息を殺す。
春子が静かに告げた。
「工作員よ」
人影が、アパートの死角へ消える。
「侵入してくるつもりね」
換気ファンだけが回っている。
太児は、さっきまで漂っていた火薬の匂いが、もう、訓練場の匂いには感じられなかった。

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