小説「太児」第八十五話

この物語はすべてフィクションです。

第八十五話 陳家刀 東瀛剣に逢い 古今の武芸 朝陽に会すこと

日が出る前に弟子たちは庭に集まる。

庭には、何本もの木刀が壁に立て掛けてあった。

「今日は刀をやる」

陳照旭が幅広の刃を空に向けた。

「刀は、手っ取り早く戦場で使える武器だ」

白い息が薄暗い庭を上る。

内弟子の一人が尋ねた。

「師兄、太極拳なら、剣じゃないんですか? 豫侠師姐みたいに…」

照旭が答える。

「剣は難しい。点、刺、撩、挂……細かい技が多い。実際に使えるようになるまでは、相当な年月を要する。それに比べると刀は単純だ。斬る、刺す。身体の使い方さえできていれば、即戦力だ」

「そう。剣はベテラン向きよ」

陳豫侠がクスッと笑い、木刀をブンと振った。

昨日見た優雅な剣さばきとは、まるで違う。

陳遊学が目を丸くした。

「刀も迫力ありますね……」

照旭が豫侠に言った。

「お前はすぐに得意げに見せびらかすなあ。照丕(しょうひ)兄さんに見られたら笑われるぞ」

「てへへ」

豫侠が舌を出す。

「陳照丕…?」

侠太郎は思わずつぶやいた。

陳照丕は、のちに陳照奎とともに陳家溝で四天王たちを育てることになる陳発科の甥だ。北京(北平)で指導していたが、首都だった南京に呼ばれ、その後釜として北京に来たのが、叔父である陳発科だと伝わっている。

「知っているのか?」

「いえ…ご兄弟ですか?」

「俺の従兄で、刀の名人だ。故郷の陳家溝で抗日の連中にも教えている。日本兵をぶった切るためにな」

その言葉のあと、何人かが侠太郎を見る。

どうやら、侠太郎が日本人ということは、内弟子達にも知られてしまったようだ。

「…日本人には、面白くない話かな?」

「いえ…戦争ですから…敵を倒す訓練をするのは当然でしょう」

照旭の鼻からフンッと息を出した。

「日本人は刀が得意らしいじゃないか。あんたもできるのか?」

「多少は…」

遊学が故宮博物院での侠太郎の剣さばきを思い出して、クスリと笑った。

「おい、日本人」

照旭は壁際の刀を顎で示した。

「一本取れ」

侠太郎は刀を手に取った。

木刀ではあるが中国刀である。柄が逆ぞりしていて、剣とは重心も握り方も違ってくる。

「ちょっと振ってみろ」

「日本刀と中国刀では、だいぶ違いますよ」

「ふん。言い訳か?」

「では、少し…」

侠太郎が右手で柄を握り、×を描くように袈裟懸けに振った。

一歩進んでまっすぐ突き込んだ後、頭に巻き付くように水平に振る。

照旭が叫んだ。

「待て!」

侠太郎が止まった。

「どこで習った?」

「日本ですよ。未来の」

「中国人から学んだのか?」

「日本人からです」

「嘘をつけ」

照旭が一歩近づいた。

「今のは日本の刀じゃない」

侠太郎は黙っている。

「その纏頭は、陳家の刀だ…」

内弟子たちがざわめいた。

侠太郎は天を仰いで、大きく息を吐いた。

「実は陳家溝で学んだ日本人にも刀術は学びました」

「陳家溝で…照丕兄さんにか? まさか?」

「いえ、もっと後の時代ですよ」

「そうだったな…」

照旭が黙って考える。

「たしかに…少し違いもある」

今度は照旭が同じ動きをする。

刀が背を巡り、外側から内側に巡る。

「あんたたちは未来から来たんだったな」

「はい」

照旭は刀を構えた。

「俺と手合わせして、未来の陳家刀を見せてくれ」

「いや、私は陳家溝の刀術も学んだことがあるっていう程度で、本業は日本剣術なんですよ…」

「そんなことはどうでもいい。構えろ」

照旭が怒ったような笑っているような顔で言った。

「未来で俺たちの刀がどうなるのか、知りたい」

侠太郎も刀を構える。

照旭が腰を落とした。

二人の刀が触れた。

カン。

一合。

カン、カン。

二合、三合。

照旭の眉が動いた。

侠太郎の刀は、たしかに陳家の刀の特徴を持っている。

だが時折、違うものが顔を出す。

踏み込みが違う。

間合いが遠い。

刀を身体に纏わりつかせるように操る陳家刀の中へ、一本の線を最短で走るような斬撃が突然入り込んでくる。

照旭が刀を弾いた。

侠太郎も弾き返した。

二人同時に間合いを切った。

「……なるほど」

照旭が笑った。

「陳家の刀の中に、日本の剣がいるな」

侠太郎も刀を下ろした。

「私は子供の頃から日本剣術をやってました。陳氏の刀術を学んだのは大人になってからですが、どこからどこまでが陳家なのか、もうよく分かりません」

照旭はしばらく侠太郎を見ていたが、刀を下ろした。

「なるほど、ハイブリッドってわけか。武術とは、そういうもんなのかもな」

そういって、照旭は刀を左手に持ちかえ、侠太郎に包拳礼をした。

侠太郎が少し戸惑う。

「昨日までは、あんたが日本人だというのが気に食わなかったが、刀には嘘がない。柔侠太郎先生、おみそれした。武林是一家だ」

「ありがとうございます」

「もう一戦やろう。日本の剣術をもっと味わいたい」

照旭が刀を右手に持った。

侠太郎も静かに刀を構えた。

今度は先ほどとは違う。

構えた瞬間から、間合いそのものが変わっていた。

照旭は嬉しそうに笑った。

「そうだ。それを見せてくれ、侠太郎」

カン、カン、カン。

三合打ち合い、照旭が聞いた。

「今のは日本剣術か?」

「はい」

「何という?」

「新陰流です」

照旭の目が細くなった。

「…影流?」

「ご存じで?」

「昔、陳家に日本の剣術を研究した者がいたという話がある」

侠太郎は黙った。

「本当かどうかは知らん。昔話だ。日本の影流だとか、それから――」

照旭は少し考えた。

「二刀を使う刀術もあるそうじゃないか」

「二天一流ですか?」

「そう、それだ」

侠太郎が刀を下ろした。

「宮本武蔵……」

「知ってるのか?」

「日本人で知らない人はいませんよ」

照旭はニヤリとした。

「侠太郎も二本使えるのか?」

「多少は…」

「ふふふ…。いいな。実にいい」

照旭がもう一本の木刀を取った。

「今度は俺が見せてやる」

照旭は両手に木刀を持ち、おもむろに振り出した。

刀を振りながら、右に左に、クルクルと反転する。

二本の刀は、まるで一つの巨大な武器が伸びたり縮んだりしているように見える。

足運びは軽やかに、地面を滑るようであり、留まるところがない。

「宮本武蔵…」

…足のはこびやうの事、爪先を少しうけてきびすを強くふむべし。足づかいは、ことによりて大小遅速はありとも常にあゆむが如し。足に飛足、浮足、ふみすゆる足とて、是三つ、嫌ふ足なり。此道の大事にいはく、陰陽の足と云ふことあり。是れ肝要なり…

侠太郎は五輪の書の一節を思い出した。

「どうだ。二天一流に似ているか?」

「二天一流では、大刀と小刀を使い、役割が違います。照旭さんの刀は、まるで一つの武器のように見えました。」

「そうか、ふふっ、だが俺の中では、左は盾なんだ。役割分担しているよ。やっぱりお互いに影響を受け合っているのかもしらんな」

二人はしばらく顔を見合わせた。

百年、二百年、あるいはもっと昔。

日本から中国へ何かが渡ったのか。

中国から日本へ何かが渡ったのか。

それとも、人が刀を持って戦えば、遠く離れた土地でも同じ理に辿り着くのか。

二人には分からない。

「面白いな」

「ええ」

「どっちが先なんだろうな」

侠太郎は笑った。

「それを言い出すと喧嘩になりますよ」

「もう戦争してるじゃないか」

「そうでした」

二人とも笑った。

遊学が豫侠に聞いた。

「豫侠師姐は、どちらが元だと思います?」

「さあね。二本の腕で刃物を振り回すんだから、似ることもあるんじゃない?」

陳発科は茶をすすりながら、笑っている。

低い朝陽が東の塀を越えて庭に差し込み、武人たちの顔を照らした。

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