小説「太児」第八十四話

この物語はすべてフィクションです。反論異論苦情申し立てなどあるかもしれませんが、フィクションですので目くじら立てないでください。

第八十四話 龍泉剣二振りとなり 異邦客真の名を明かすこと

「それじゃ、警察局では話せなかった続きを聞かせてよ」

食事も済み、内弟子達が弟子部屋に戻ったところで、陳豫侠が二人に切り出した。

「台湾の故宮博物院ってどういうこと? 故宮博物院なら北京にあるでしょう」

陳遊学は言葉を選んだ。

「将来、故宮の文物の一部が台湾へ移されるんですよ。それで、台北の郊外に、もう一つの故宮博物院が造られます」

「どうして、故宮の文物が台湾へ行くのよ?」

陳遊学は侠太郎を見る。

侠太郎は小さく頷いた。

「信じてもらえないでしょうが、私たちは未来から来ました」

陳豫侠は驚くでもなく、小さく笑った。

「ふーん。未来ね…。じゃあ、この国がどうなるのか、知ってるの?」

侠太郎は慎重に答えた。

「いや…未来は、一つとは限りません。私たちがここへ来たことで、変わる可能性もありますし…」

「うまく逃げたわね」

陳豫侠は笑い、壁の剣を手に取った。

それは、侠太郎が台湾の故宮博物院地下収蔵室から持ち出した龍泉剣だった。

鞘からわずかに抜き、灯火に剣身をかざす。

「蘇さんが持っていたこの龍泉剣は、その台湾の故宮にあったってわけ?」

「…そうなのです。実は、こちらに来る前に、ドサクサがありまして、成り行きで持ち出してしまったのです」

「面白いわね…。龍泉剣なんて珍しくもないけど…」

剣から視線だけを上げ、二人を見上げる。

「これ、私のよ」

「え?」

陳遊学と侠太郎が顔を見合わせる。

「でも、豫侠さんの剣は、そちらの剣では?」

侠太郎が、壁に掛けられているもう一振りの剣に目をやった。

「そうね。うふふ」

陳豫侠は剣をひっくり返し、柄の方を二人に向けた。

「何か模様が見えない?」

侠太郎が剣を手に取り、しばらく眺めた後、陳遊学に渡す。

「ここは学芸員の陳先生の出番かと」

陳遊学は、じっと柄を眺めて、指でなぞる。

「…木の柄に何かうっすらと彫ってありますね。消えかけていますが…えーっと…、英語のLみたいな……丸? V? いや、龍泉剣にアルファベットなんてあるはずが……甲骨文字かな?」

「ふふっ。LOVEよ」

「えええーっ!!??」

陳豫侠がニッコリ笑い、壁に掛けてあったもうひと振りの剣を降ろして、二人に見せた。

その柄の部分には、くっきりとLOVEの文字が刻まれていた。

「えええーっ!!??」

「うら若き乙女だもんね。自分の持ち物には愛情を込めたいものよ。私は自分の剣をラブちゃんって呼んでるの」

「…」

「可愛いでしょ?」

「…」

「おほん。つまり、まったく同じものが、ここに二つ存在しているってこと」

「…」

ふたりが言葉を発するのに、しばらく時間がかかった。

「…つまり、ここ北京で、密輸団の手首を落とそうとした豫侠さんの龍泉剣ラブちゃんが、どういう経緯か台湾の故宮博物院に移送され、それを未来で私が持ち出して、この時代の北京に持ってきてしまって、今、ふたつ並んでいると…」

侠太郎が状況を整理する。

「おかえり」

陳豫侠が刃にチュッとキスをした。

そして、侠太郎に笑いかけた。

「あなた、日本人でしょう」

侠太郎は息を呑んだ。

「な、なぜ?」

「剣の扱い方が、日本の剣術だったわよ。身についた癖は嘘をつけないわね」

陳遊学が侠太郎を見る。

「蘇先生は日本人とのハーフだっていってませんでしたっけ?」

「そんなこと、言いましたっけ?」

陳豫侠は鞘から抜いた二振りの龍泉剣の両手に持ち、天井を見上げ、目線の先で剣先をクルクル回す。

侠太郎と陳遊学が思わず仰け反る。

「…未来から来た日本人が、どうして中国人の名を名乗るの? 今の北京なら日本人の方が都合いいじゃない?」

陳豫侠は、剣を回しながら、頭を整理しているようだった。

「…遊学さんにも本当の素性を隠していたのね」

陳遊学が、侠太郎を睨む。

「蘇先生、騙していたんですか?」

侠太郎は諦めたように息を吐いた。

「すみませんね、陳先生。まさか時を超える羽目になるとは思いもよらず…ここまできたら一心同体少女隊…運命共同体です。陳先生には本当のことを打ち明けましょう」

「私にもね」

陳豫侠は二振りの龍泉剣を鞘に収め、静かに二人を見た。

 

侠太郎は迷った。

任務上の秘密を話せるわけがない。また、この異世界で、未来を話すことは危険ではないか…?

「脅して締め上げてゲロさせるのは、私の得意技なのよ。でも、そんなことはしないわ。武林是一家。あなたを信じるわ」

「…未来を知るのはショックだと思いますが…」

「これでも武人よ。敗北も、死も恐れない。真実を話して」

陳豫侠はまっすぐに二人を見た。

石炭ストーブの中で、炭がぱちりと爆ぜた。

侠太郎の心が決まった。

「蘇崑崙は偽名です。本当の名は、柔侠太郎です」

黙って茶をすすっていた陳発科が、わずかに頷いた。

「柔太児君の父親か…。太児君には、子供の頃から何度も会い、この北京に来てからも会っておる。わしが大人になっているのに、太児君は子供のままだった。時を超えていたのじゃな」

「そうだったのですか…」

侠太郎が呻く。わが子から聞いたことのない話だった。

父と子、お互いに秘密を持っていたのか…

侠太郎は話した。

太児が、陳家溝に伝わる伝説の珠を継承したこと。他の珠の行方を追っていること。

第二次世界大戦、新中国成立、そして文化や武術が受ける激動について語った。

「今、この世界は大転換を迎えています。我々がいた時代でも、世界は大転換が起こっています」

「世界はめぐるものだ…。陰陽が入れ替わり、元に還る。連なる輪のようにのう…」

陳発科がつぶやいた。

陳豫侠が尋ねる。

「どうして、故宮の文物や伝説の珠が台湾へ? 珠が散り散りバラバラになるのはなぜ?」

侠太郎が答える。

「戦火から守るためだったのかもしれません。大陸では何度も政治運動が起こり、古い書物や寺院、家伝の品々が失われます。武術家たちも翻弄され、伝承が失われます」

「伝承が失われる?」

陳豫侠が責めるような口調になったが、陳発科が言った。

「わからんでもない。わしらはそういう民族だ。王朝が変わるたび、前の時代の文化は壊されてきた。歴史の繰り返しだ」

陳豫侠が黙りこんだ。

「そうか…珠の伝説は聞いたことがある。実はわしも一つ、託されておる」

陳発科が、戸棚を開け木箱を取り出した。

木箱の中には、墨で「厳」と記された丸い木珠が静かに納められていた。

「うっ」

侠太郎が息をのんだ。

「陳家溝を出て北京に来るときに、陳家の代表の象徴として、預かってきたのだよ。わしの後は照旭が継ぐことになる。国の命運にかかわるものとまでは思わんかったが…」

陳照旭が言った。

「共産主義などいう、ぽっと出の思想に我らの伝統が潰されるなんて、許せません。なんとかしないと…」

「民国は共産勢力によって大陸から追い出されるってことね…。共産主義に染められるくらいなら、日本に統治されていた方がまだマシかもね」

陳遊学がふと尋ねた。

「日本は、南京で大虐殺したってことで、この時代は嫌われているのでは?」

陳豫侠と照旭が、顔を見合わせた。

「まあ、嫌われてはいるでしょうよ。通州じゃ親日側の保安隊まで寝返って、日本人の居留地を襲ったって話じゃない。民間人が百人以上殺されたわね。えげつない虐殺現場だったらしいけど……南京で大虐殺って?」

陳遊学が続ける。

「3年ほど前、南京が占領された時、膨大な数の民間人が虐殺されたと、私たちの時代には伝わっています」

「南京での戦闘はそれほど激しくなかったみたいだし、大規模な虐殺があったなんて、北京じゃ聞いてないわよ」

「正規軍が敗退しても、我々は抗日ゲリラとなって徹底抗戦するからな。戦えば死ぬし、捕まれば生きて帰れんかもしれん。それくらいの覚悟はする。ゲリラは軍属でないが、心は誇り高き戦士だ。たとえ死んでも…日本の武士道じゃないが、名誉の戦死だ。それを虐殺などと一括りにされるのは、死者への冒涜、武人に対する侮辱だ」

陳照旭に、陳遊学がおずおずと答える。

「…いえ、それが…武器を持たない女子供まで殺された、という話なんです」

「なんだと、そんな非道なことを?」

「それなら、日本軍による重慶への爆撃が続いてるじゃないの。軍事施設を外れた流れ爆弾で民間人も相当犠牲になっていると聞くわ。何百人単位で…。それこそ大虐殺ね」

「空から民間人の住宅街に爆弾を落とすとは日本は卑怯じゃないか! いくら功夫の達人でもどうしようもない」

のちに世界中に広がる空爆の悲惨さを知る侠太郎は、黙って聞いていた。

興奮する陳照旭に、陳豫侠が口を挟んだ。

「国民党だって、撤退するとき、黄河の花園口で堤防を切って大洪水を起こしたっていうじゃない。日本軍の追撃を止めるためにね。多少足止めできたかもしれないけど、住人の被害は甚大だったそうよ。何万人だか……桁違いのとんでもない数の民が死んだって話じゃない」

「俺が陳家溝に帰ってた時だ。上流だったから洪水は来なかったが、河南省全体が大混乱だった。どいつもこいつも、権力を握る連中は、めちゃくちゃやりやがる。仁義もへったくれもありゃしねえ。俺は政府なんて信用しないね。ウソばっかり垂れ流すしな」

陳遊学がおずおずと尋ねる。

「南京では、その爆撃や洪水をはるかに上回る三十万人が虐殺された説もあるのです」

「いや…そりゃ、いくらなんでも無理だろう」

陳照旭が驚いた顔をし、陳豫侠はあきれたように口を出す。

「南京陥落前の南京には三十万人も残ってなかったわよ。皆殺しにしても足りないわよ。どうやったら三十万人になるのよ」

「…そこまでは私にも…いろんな説が伝わっているもんで…」

黙って聞いていた陳発科が静かに言った。

「政治にあまり深くかかわらん方がええ。世の流れに逆らえるもんでもない。己を捨て、人に従い、時を待つんじゃ」

「師父、それでは座して死を待つようなものではありませんか」

「そうではない。世の中は陰陽が巡っておる。たとえワシらの代が不遇だったとしても、種を残しておれば、また芽も出て、根が伸び、葉が茂り、花が咲く世も来るのだ」

「私は、今の世で花を咲かせたいけどね…」

陳豫侠が誰にともなしにボソッと言った。

 

夜も更けて、侠太郎と陳遊学には弟子部屋の一つがあてがわれた。暖炉もない寒い部屋だが、裕福でもない家で、一部屋を用意してもらえることに、武林是一家の精神を感じられた。

「しかし蘇先生…じゃなくて、柔さん、豫侠さんの剣がどうして故宮に収められていたのか…そこが気になるんです」

陳遊学が、暗い寝床でヒソヒソと声をかける。

「陳先生、私もそこに引っかかっていました。あの剣は豫侠さんの愛用品であり、私物でもあった剣です。手放して博物館に寄贈するとは考えにくい」

「なにか暗い未来を感じるのですよねえ…」

部屋が暗いので表情は良く見えない。

「それから信の珠ですよ。あの珠の導きでやってきたら、ここには厳の珠があった。引き寄せの法則が働いたような…」

「私もそのことは考えていました。他にも行方のわからない珠がありますから、今後の行き先は、珠次第ってことになるかもしれません」

「我々は元の世界に戻れるんでしょうかねえ…平和な時代に戻りたいですよ」

「陳先生、元の世界が平和なんて言えませんよ。この時代とどっこいどっこい、もしかするとそれ以上に混沌とした世界になるかもしれませんよ」

陳遊学がゴクリと唾をのむ。

侠太郎が口調を軽くして言った。

「それから、すみませんが蘇崑崙で通してもらっていいでしょうか? 元の時代に戻った時、その方が何かと都合がいいので…」

「ふふふ、蘇崑崙先生、戻れることを考えているんですね」

「当然ですよ。私にも家族がありますし、戻りたいと思っています」

「太児君ですね。どんなお子さんなんですか? この時代じゃ別に差し支えないでしょ。教えてくださいよ」

「そうですねえ…」

侠太郎は、妻と子供のことを、ぽつりぽつりと話したが、それでもやはり、所属組織である連環のことは黙っていた。

(連環か…)

陳発科のつぶやきが耳に残っている。

「世界はめぐるものだ…。陰陽が入れ替わり、元に還る。連なる輪のようにのう…」

その言葉は、八十年後の世界にも、そのまま当てはまっていた。

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