小説「太児」第八十三話

この物語はすべてフィクションです。

第八十三話 太極の門に身を寄せ 一家の情に心和む

スーツでは不審だとのことで、侠太郎と陳遊学は立ち襟の中国式上着と木綿のズボンを借りて、一門についていった。靴は千層底の黒い布靴だ。

「昔のカンフー映画みたいですねえ。学芸員たるもの、歴史的コスプレは大いに興味があります」

陳遊学が嬉しそうに言う。

午後の練習は、陳発科邸からほど近い公園で行われた。

「うちの庭じゃこの人数は入りきらんからの」

内弟子の練習は毎日早朝から行われるが、休日などには外部からの学生もやってくる。

さらに大人数を集める講習は、北京市内の体育館などで行われるが、このご時世、何十人も集まれば警察に目をつけられる。

「このところ物騒になってきたからな、中止することも多い」

表向きは健康法の講習として届け出ているが、参加者の身元には常に注意が必要だと照旭が言いながら、二人をじろりとにらむ。

「あんたたちが一番怪しいが…」

「ま、豫侠が招くくらいだから、大丈夫だろうよ」

陳発科は、のんびりと答える。

侠太郎と陳遊学も学生たちの列に加わった。

外部からの練習生は学生と呼ばれていたが、初心者ではなかった。

それぞれ、すでに何らかの武術を修めた者たちだった。八卦掌、形意拳、少林拳…などなど。自らの流派では師範格の者もいる。

北京で評判になった陳発科の指導を仰ごうと、学びに来ているのであった。

しかし、太極拳の習得は彼らにとって簡単なものではなかった。

「円襠になってない!」

照旭の声が響く。

「なんでそんなに股をピーンを伸ばすんだ? もっと丸く、丸く!」

学生たちはアタフタと姿勢を直す。

「ガニ股になるんじゃなーい! 纏絲を内旋させろ!」

立っているだけなのに、すでに学生たちは汗だくだ。

「まあまあ、これまで馴染んでいた歩法を変えるのは難しかろう。照旭よ、そこまで厳しくせずともよい」

練習場の隅に座っている陳発科が穏やかに言う。

照旭は首を振った。

「師父! それはよくありません。間違った形を覚えれば、あとで直す方が何倍も苦労します!」

学生たちがビクッと背筋を伸ばす。

「うわあ。厳しいですね」

最後列に並ぶ陳遊学が、侠太郎にささやく。

「妥協を許しませんねえ。この一途な厳格さがあのような結果になったのかも…」

「あのようなこと?」

「いえ、なんでもありません」

立ち方だけで三十分。次に歩法練習に進む。

「もっと、膝を上げて! 股を閉じない! 虚実を明確に!」

歩くだけだが、すこぶるきつい運動だ。

「客人たち、どう?」

幼い照奎がふたりに声をかけてきた。

「馬に乗るように足を開くんだよ」

「私、馬に乗ったことがなくて…」と遊学。

「そうなの? じゃあ想像してみなよ。馬に乗ってる兵隊さんはよく見かけるだろ?」

「うーん、こんなかんじ?」

「そうそう! いいかんじ! それから、俯いたり仰け反ったりしないようにね。頭のてっぺんから槍が生えて、天にグサッと刺さると想像したらいいよ!」

「へえ…天にグサッとね…」

「こら、照奎! 勝手な指導をするんじゃない!」

照旭が前列から怒鳴る。

「ちぇっ、おいらが教える方が分かりやすいと思うけどなあ。器が小さいよ、あんちゃんは」

ニヤニヤ笑いながら、照奎が二人にささやく。

(そうか…この小さい坊やが、この先、陳家溝の四大金剛を育てることになるんだな…)

侠太郎が感慨深く陳照奎を眺める。

「なんだい、しげしげとおいらを見つめて…。蘇さんも癖が強いなあ。なんだか日本のサムライみたいだ。その点、遊学さんは、わりと太極拳になっているよね」

「おじいさんがやってたのをよく見てたからね」

「それでかあ。おいらも父ちゃんやあんちゃんを毎日見てるからね。自然と体に入ってくるんだ。学生さんたちは、ちゃんと見ないで理屈ばかり考えるから、なかなか身につかないんだよ。」

歩法練習ばかりさらに一時間。

そして基本功に一時間で休憩。学生たちも、ふたりもへとへとだ。膝が震え、腰や腿の張りに音を上げている者もいる。

「まあまあ、茶でも飲んで一休みせんか」

陳発科が声をかけると、内弟子の一人が大きな籠を抱えてきた。

「休憩でーす。焼餅を一つずつどうぞー」

学生たちは布に包まれた胡麻焼餅を受け取り、湯気の立つ大きなやかんから茶碗へ熱い茶を注ぐ。

「わーい! おやつだ!」

照奎は喜ぶ。

「うちも貧しいのに、師父は気前良すぎるなあ…」

照旭はブツブツ言っている。

休憩に入った途端、汗の冷えた背中へ冬の風が刺さった。学生たちは慌てて綿入れを肩へ掛け、熱い茶碗を両手で包んだ。

熱い茶と焼餅を囲むうちに、張り合っていた学生たちもにこやかに声を掛け合うようになる。

「武林是一家(武術を学ぶものは皆兄弟)だのう」

陳発科が目を細める。

「さあ、食ったらまた練拳だ。次は套路を通していくぞ!」

照旭の声に、おおっと歓声があがった。

 

日が傾き薄暗くなり、空気は冷えてくる。

「さて、また来週、と言いたいところであるが、このご時世、一寸先はどうなるやらわからん。皆、無理の無いように参加してくれたらええ。家族を大切にな」

陳発科の挨拶に、みな、お辞儀をして解散となる。

侠太郎、陳遊学のふたりは、陳発科一門とともに帰る。

「お客様が来られてたのね。ようこそ、いらっしゃい」

濃紺の綿入れを着た女性が、湯気の立つ台所から姿を現した。

黒いゆったりしたズボンの裾から、履き慣らした布靴がのぞいている。髪は後頭部で低く丸め、飾り気のない木の簪で留めていた。

「かあちゃん、ただいまー」と陳照奎が飛びつく。

「ただいま帰りました。師母」と陳照旭。

内弟子たちもそろってお辞儀をする。

「お腹が空いたでしょう。夕食の用意ができていますよ」

「おお、ありがたい。いつも大勢の食事をすまんの」

「今さら何を言っているんです。お弟子さんたちが腹を空かせていて、拳が練れますか」

陳夫人はそう言うと、人数を確かめるように食卓を見回し、侠太郎たちのために椅子を二脚加えた。

丸いテーブルを囲んで、一門の団欒が始まる。

「ただいまーっと! あーお腹空いた! おかあちゃん、ご飯できてるー!」

門の外から若い女性の大きな声がする。

「なんですか、お客様がいらっしゃるのに、はしたない!」

陳夫人が、門に向かって叫ぶ。

「あっ、そうだった!」

部屋に入ってきたのは、朝に天安門で出会った陳豫侠だった。

二振りの剣を壁に掛け、二人に笑いかける。

「陳遊学さんに蘇崑崙さん、ちゃんと辿り着いたわね。ここが私のうちよ!」

陳遊学が侠太郎にささやく。

「なんだか、朝とイメージが違いますね…」

「こっちが地なんでしょう…」

コメント