この物語はすべてフィクションです
第八十二話 古院に名師を訪ね 異縁ついに明らかとなる
「釈放されたものの、ここでどうしたものだか…」
「五年後には日本が敗戦します。治安が維持されているうちに元の世界へ帰りたいものですね」
「陳先生、ずいぶん気長ですねえ」
「気長じゃありません。現実逃避です」
「なるほど。それは失礼しました」
陳遊学は思い出したように言った。
「あっ、そうだ。さっき陳隊長から何か渡されていましたよね?」
侠太郎は紙切れを取り出した。
「住所ですね」
陳遊学は目を輝かせた。
「きっとご自宅ですよ!」
「そうですかねえ?」
「若い女性から『あとで来て』なんて誘われたんですよ。行かない理由があります?」
「陳先生、えらくせっかちですねえ…親戚なんでしょう、あの人」
「だからですよ。なおさら気になります」
「理屈がよく分かりませんね」
「私にも分かりません」
二人は顔を見合わせ、思わず笑った。
天安門前の喧騒を離れ、住所を尋ねていくと、石畳の胡同(フートン。細い路地)へ入った。
剣は警察局で没収されてしまい身軽になっている。侠太郎の懐には信の珠だけがあった。
灰色の煉瓦塀が続き、軒先では老人が煤けた炉で湯を沸かしていた。
胡同では、石炭の煙が低くたれこめ、子どもたちが独楽を回しながら走り回る。
胡同の奥、煤けた灰色の門をくぐると、静かな四合院(しごういん。中庭付き住宅)が現れた。
四角い中庭では、冬の日差しを浴びながら若者たちがゆっくりと拳を舞っていた。
足元の雪は踏み固められ、吐く息は白い。
「急ぐな…」
庭の隅では、痩せた初老の男が椅子に腰掛け、弟子たちを見守っていた。
短く刈り込まれた髪に髭はなく、濃灰色の綿入れの上着に、ゆったりした黒いズボンを穿いていた。髪には白いものが混じるが、その眼光は鷹のように鋭い。
「内側を練るんだ…」
庭の隅には槍や青龍刀が立て掛けられ、軒下には使い込まれた龍泉剣が吊るされていた。
陳遊学が侠太郎にささやく。
「住所はここのようなのですが…」
庭の端にいた逞しい体つきの男が、二人に気づいた。
「なんだ、あんたがた。ここは見学できるところじゃない。紹介状はあるのか」
「いえ、教えてもらった住所を辿っていたらこちらに参りまして…」
男が紙を受け取り、一瞥し、庭の隅に座る師匠らしき男に向かって言った。
「豫侠の字です。師父」
師父と呼ばれた男は静かに目を開いた。
「入ってもらいなさい」
男は扉を開けて、二人を通し、路地を奥まで見渡してから、扉を閉めた。
「あなたがたは、故宮の警衛をしている娘に会って、ここへ来たのじゃな」
「住所だけ渡されまして」
「ほう」
陳発科は二人を眺めた。
「で、この先の当ては?」
「ありません」
「帰る方法も分かりません」
「なら、しばらくここにおればよい。北京を当てもなく歩くには、今は物騒すぎる…おい、照旭」
「はい、師父」
「客人の世話を頼む」
「承知しました」
「とりあえず、昼飯にしよう。客人たちも一緒にどうだね。粗末なもんしか出せんが」
「ありがとうございます」
円卓を囲んで、食事となった。
饅頭に菜や大根の煮込み。弟子たちの手料理だ。
「ここにおるのは内弟子達だが、今日は昼から外部の学生達もやってくる。太極拳に興味があれば、一緒にやっても良い。教練は息子の照旭だ」
「私、子供の頃に少し習っておりました。ご一緒に練習させていただきます」
「ほう。そうか。あんたも陳家溝に縁があるのだな。家族と思ってくれたらよい」
侠太郎が聞いた。
「あの、老師はもしかして、陳発科老師では…?」
「そうだ。知らずに来たのかね?」
「いえ、住所の紙切れをいただいただけなので…」
「ハッハッハ。あいつらしいわ」
弟子たちが一斉に笑う。
「娘が一番の出世頭でな。頭も良くて器量よし。武術もそこそこできる。そこにいくと、息子の照旭は頑固一徹で融通が利かん。末っ子の照奎の方がうまく立ち回りそうじゃ」
その照奎が餃子を運んできた。
「ご客人たち、まあまあ、餃子でもおひとついかが?」
「この物資不足に餃子とは、ぜいたくじゃないか」と照旭。
「あんちゃん、ケチ臭いなあ。お客が来た時くらい、いいだろう。ねえ、父ちゃん」と照奎。
「こら、お前はまた! みんなの前では師父と呼ばんか」と照旭。
「まあまあ、よいよい…」
「くう、父ちゃんは照奎に甘いんだから…」
照旭は父親に聞こえないよう、子供じみた声でぼやいた。
陳発科は箸を止め、しばらく侠太郎の顔を見つめた。
「ところで、蘇さんは、昔、会ったことがなかったかな…」
「いえ、はじめてお目にかかりますが…」
「そうか…誰かに似ている…年を取らない不思議な少年…」
しばらく考え込んでいた陳発科が、ふとつぶやく。
「…太児君に、よう似とる」
顔を上げ、尋ねた。
「まさか…太児君の倅か?」
侠太郎も顔を上げ、陳発科と目を合わせる。
「いえ…父親でございまして」
「……ほう」
陳発科は目を見開いた。
「そうか、太児君が年を取らなかったのも、父親だというあんたが現れたのも…。うむ、そうか、ああ、そうか…」
何度も頷きながら、一人で納得している。
「えっ……えっ?」
隣では陳遊学が完全に混乱していた。
「蘇先生のお子さんを発科老師が知っていて、その子供かと聞いたら、父親で……ちょっと待ってください。私の頭が追いつきません」
侠太郎は湯呑みを口へ運びながらクスリと笑う。
陳発科は声を上げて笑った。
「はっはっは。あい分かった。面白い巡り合わせじゃ」
そして穏やかな口調で言った。
「まあ、ゆっくりしていきなさい。夜には娘も帰ってくる。その時に、改めて話を聞こう」

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